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「経緯はわかりました」
ノートにメモを取りながら柳井の話を聞いていた朝倉は聞き終わると静かにそう言った。
土曜日のオフィスはちらほらと出社している社員がいる。けれどあまり電話の鳴らない社内は少しの声も響くようで落ち着かない。会議室に二人で入ってさえ話声の音量には気をつけた。
そんな柳井の気持ちを知ってか知らずか上司は淡々としている。部下に対しても物腰穏やかな人ではあるけれど内心がその通りなのかはわからない。三十代後半のこの上司はいつもとても謎めいている。
「今回のこと、柳井くんはどう思っていますか。衆人環視の前で騒ぎになったことは迂闊ですが、それ以前にもっと穏便に話をつけられたと思いますか」
「…はい」
柳井が肯くと朝倉は指に挟んだボールペンをくるりと回した。上司というよりはまるで落第した生徒に対する教師のような口調で柳井を問い質す。
「例えばどうしていたら今回のことが回避できたと思いますか」
「初めて手を触られた時にそれとなく止めてもらうよう伝えるべきだったと思います」
「他には」
「課長に報告するべきでした」
「そうですね。リスクマネジメントも大事な仕事の一つです。まず君は彼女に不快な言動をされた段階で私に報告すべきだった。そうすればこちらの担当を柳井くんから別の人間に変えることも出来たんです。報・連・相。社会人の基本の基です」
「申し訳ありません」
事実を叱るように言われて柳井は俯いた。昨日今日働き始めた新卒の新入社員でもあるまいに、そんなことも出なかった自分が恥ずかしかった。
けれど身勝手な言い訳をするなら女性に性的な関心を持たれることが多すぎて感覚が麻痺していた。あれくらいのことで騒ぐものでないと思っていた。もちろん口には出さなかったけれど。
しおらしく反省した様子の柳井に朝倉はふっと息をついた。
「君は少し自己認識が甘いところがありますね。自覚は?」
「……あります」
「そうですか」
徐に眼鏡を引き抜くと、朝倉は節の高い指の先で目頭を押さえた。アルコールに弱い体質なので昨日の酒が残っているのかもしれない。それともこの事態の幕引きをどうしようと考えて頭が痛いのだろうか。
何事もなかったように眼鏡をかけ直した上司はちらりと机の上のスマートフォンに目をやった。それからまたくるりと手元のペンを回した。
「あの……」
「はい」
「申し訳、ありませんでした」
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