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第23話 長谷部の誘い
朝礼が終わった。
ガヤガヤとおしゃべりしながら皆が席に着こうとした時、主婦で経理担当の秋本が机の上のカレンダーを見て、思いついたように藤島に向かって声をかけた。
「そういえば、支店長のお子さんって今年何歳ですか? 」
皆が藤島を振り返っていた。家族の話を全くしたことのない上司なので、奏以外の誰もが興味を覚えたのだろう。
質問から数テンポ遅れて「あっ、3歳ですよ」と答える藤島。
奏の心臓がドクンと鳴った。
「なら、七五三するんですよね。あっ、でも男の子は5歳でしたっけ? 」
「男の子でも七五三はするようです。ウチは妻の実家が東京なので、向こうで行くことになってます」
「奥さん、東京の人なんですね」
秋本が続ける。
「息子さん、支店長似ですか? 」
「さぁ、どうなんだろう…… 」
藤島が答えながら、秋本の対面に座っている奏をチラリと盗み見た。
奏はファイルを開いて、ひたすらめくっている。口を真一文字に結んで。
「支店長に似たら男前でしょうね」
原口が奏に相槌を促そうと話しかけるが、奏は聞こえない振りをしてやり過ごした。
代わりに吉留が「ご家族の写真見せてくださいよ」と言いだした。
「いや、写真はないです。仕事に私生活を持ち込まない主義なんで、家族の話はこれでお終いです」
藤島のひと言で、おしゃべりが止んだ。
奏の胸はキリキリと痛み、鼻の奥がツーンと軋んでいく。
こんなたわいのないおしゃべりで動揺している自分が情けなかった。
その日一日、鉛のような重い塊が奏を苦しめた。
退社後、マンション近くのコンビニで持てるだけのビールを買って帰る。
酔って酔って、酔っぱらいたかった。
あんな会話ごときで動揺するなんてバカだ。思い出して胸が張り裂けそうになる前に酔って寝てしまおう。
マンションの前に背の高い男が立っているのに気が付いた。本当に目立つ男だ。
「待ち伏せですか? 」
凍りつくような冷たいひと言をその男めがけて投げつけていた。
「話がしたい」
藤島が奏の腕を掴んだ。
ダメだ! 掴まれた所から熱が放たれて、凍りついていた奏を瞬時に溶かそうとする。
溶かされる前に振り解く。
「そこで待っててください。荷物置いてきますから」
奏は藤島の顔も見ないで玄関を入って行った。
買ってきた物を冷蔵庫やストック置き場に分別する。それからバッグだけを持って玄関に戻った。
何を話すことがあるのだろうか。
玄関で愛しくも憎い男がじっと待っていた。前髪が額に落ち、端正な顔に影を落としている。
「少し先に喫茶店がありますので、そこに行きましょう」
奏が返事も待たずに歩き出す。
何も言わず藤島が付いて来る。
部屋に入れないことこそ、奏が藤島を拒んでいる証しだった。
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