260人が本棚に入れています
本棚に追加
張り詰めた空気の中、互いの想いが二人の間を静電気のようにビリビリと飛び交っている。
そんな二人を通り過ぎる人が避けて通る。訳ありの男女とみなされているのだ。
奏が喫茶店のドアを開け、振り向きもせずに店内に入って、客の少ない奥の席を選んで座った。
やや遅れて藤島が続き、奏の前でなく隣の席に座る。
「どうして、横に座るのですか? 」
奏が感情のない声で尋ねた。
「君の辛そうな顔を見たくないから」
もう、そのひと言で奏は泣きそうになった。
店員が注文を聞きに近づいてきたのが分かると、藤島は彼が側に近づく前に振り向いてホットを2つくださいと告げた。
「話ってなんですか? 」
奏が前を向いたままで聞く。
「今日… あんな会話を聞かせて、すまなかった」
「… 支店長のせいじゃないのに、謝らないでください」
「それでも、すまないと思ってる。君があんな会話にも傷ついているから」
「好きになった人が既婚者と言うだけで、世間話にも傷つくんですね。支店長にどんな事情があったとしても、現状は不倫している女なんですよ、私は」
「奏…… 。妻と別れてから君と出会えば良かったんだね。僕が順番を誤ったっばかりに、君を苦しめている」
言葉を選びながら絞り出すように藤島が言う。
「私もあなたを苦しめています。私が酔ってあなたを誘惑しなければ、こんなことにならなかったんですから」
「どちらのせいでもないんだよ。僕たちは会った時から惹かれ合って、止められなかった。僕は地位や評価より君を選んだんだから」
店員がコーヒーと水をを運んで来た。並んで座るカップルの邪魔にならないよう、急いで注文品を置いた。
やがて店員が去ると、奏がいきなりカップを掴むと、苦くて熱いコーヒーを飲み干そうとした。
藤島がそんな行動に驚き、コーヒーカップを取り上げる。
そのカップをガチャンとテーブルに置くと藤島が氷の入ったグラスを無理矢理、奏の口に押しつけた。
「火傷するじゃないか! もっと、自分を大事にしなさい」悲痛な顔で訴えた。
咳き込む奏の背中を擦りながら落ち着くのを待つ。
ガチャンというカップの大きな音と、客の慌ただしい様子に気づいて店員がおしぼりを持って駆け付けた。
「あの、大丈夫ですか? 」
「はい、大丈夫です。手が滑って、コーヒーをこぼしただけなので」
藤島が謝りながら、店員に渡されたおしぼりで奏にかかったコーヒーを拭く。
手が滑ったわけではないことは店員にも分かっていたが、彼は黙ってその場を離れて行った。
奏が少し落ち着いたのを見て「店を出よう」と藤島が奏を立ち上がらせ、レジで支払いを済ませた。
店を出たところで藤島は、奏が変な行動をしないように腰に手を回しマンションまで連れ添った。
このマンションには何度か来ていたので、部屋の暗証番号は知っている。
部屋まで行くとドアを開け、ガチャンとドアが閉まると同時に藤島が奏を抱きしめた。
奏は藤島に抱きしめられると、魂を抜かれたように力が失せて抗うことができなくなってしまう。
「君が苦しむから、こうして会うのも抱くのも我慢してきたんだ。だからと言って、別れたつもりはない。あれからもずっと君への想いは変わらないし、君もそうだと分かっている。見つめることしかできないのに、悪意のない言葉が君を傷つけるんだったら、僕はどうすればいいんだ? 」
奏は何も答えられなかった。その代わり、藤島の腕を逃れようと必死で身体を動かす。
「こうやって、少しずつあなたを拒否できるようになれば、傷つかなくなる。だから、もうここには来ないでください」
その言葉を聞いて藤島は、奏のベクトルが二人が分かれる方向に向いていることを悟った。
藤島を信じられないのではなく、奏は自分が置かれている今の状況から逃れたがっている。
だが藤島は今、引き留めなくてはもう手が届かなくなるかも知れないという思いに駆られ、腕を離すどころか、さらに強く抱きしめた。
「今、君を一人にしたら、いっぱい買い込んだ酒を煽って自棄を起こすにきまってる。その悲しみを忘れさせることができるのは僕だけだ」
この悲しみの原因のくせに、それを癒せるのは藤島だけ。くやしいけれど、奏の身体は藤島を渇望していた。
「なら、何もかも忘れさせてください」
藤島の胸に埋もれると奏を包む負の想いがすべて消えていく。
「奏一人だけを辛い目に合わせやしない。何があっても僕が最後まで守る。だから、僕を拒絶しないでくれ」
こんなふうに、いつでも会える環境に居る間は、この人を拒絶したり逃げたりすることは不可能なんだ。
藤島に抱かれ、崩れて形を失っていく意識の中で、奏は藤島から離れられない自分を思い知らされていた。
最初のコメントを投稿しよう!