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藤島は本社に戻った時から結婚指輪を外していた。
それに気づいた社員はいたが、これまで家族の話をしようとしなかった藤島に、そのことを指摘する者はいなかった。
「ふふっ、そうですね、あなたはモテるから女性除けの印籠が必要ですね」
奏が時代劇で印籠を見せて、見えを切る役者のように、繋いでいない方の手を目の前に突きつけて「この指輪が目に入らぬか~」とおどけてみせた。
「指輪をしてても、こんな私に捕まるんですから、ホントお気の毒です」
「捕まったんじゃないさ。君が避けようとするから僕の方から捕まりに行ったんだよ」
「人を蠅取り紙みたいに言わないでください」
「アハッハハ 僕は蠅扱いなんだ。確かに五月蠅く付きまとったもんなぁ」
「ほんとですよ。一生懸命逃げようとしても、すぐ捕まえに来るし」
「それだけ好きだってことさ…… 3年前、結婚なんて大した意味はないと自分に言い聞かせて、婚姻届けにサインしたけどさ。君と会って気づいたよ。結婚は「この人と一緒に生きていきます」って世間に表明することだって」
「それなら婚姻届けを出す前に、先に美也子さんに表明しに行きませんか? 」
「そうだね、善は急げだ。電話して、今からでも行かないか? 」
二人はベンチに座ると早速、奏が美也子に電話する。
「今からでも大丈夫だそうです。美也子さん、とっても喜んでくれました」
奏の報告に、藤島が頷いた。
「明日から忙しくなるよ。まず、役所に行って婚姻届けを出す。婚姻届けの証人欄は専務から先に押印してもらっているから、もう一人は美也子さんにお願いしよう。届けを出したら家の契約をして、引っ越し準備だ」
「なんだか新幹線並みのスピードで進むんですね。聞いてるだけで目が回りそう」
奏が呆れている。
「奏、あそこ見てごらん」
藤島が指さす方向には、沈み始めた太陽が光のしずくを池の水面に溶かし、オレンジ色に染めていた。
それを「わぁ、きれい」と、藤島の肩に頭を預けて眺める奏。
二人はしばらく無言でその美しい景色を眺めている。
この情景は将来ずっと、二人の忘れられない一コマになるだろう。
「奏、僕の子どもを産む選択をしてくれてありがとう。君を見失って諦めかけた時、君が僕の子どもを産もうとしていると分かって、どんなに嬉しかったかしれない。絶対、幸せにするからね」
藤島の言葉を聞きながら奏は、心の中で両親に報告する。
――お父さん、お母さん。いろいろと回り道したけれど、もう大丈夫です。奏はこの人と、この人の子どもと一緒に幸福になります。
――終わり――
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