腐れ縁

8/8
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 沈黙を破ったのは、またしても宗次郎だった。彼は私に対して優しく微笑むと「ねえ、雅。君はいま、勉強を頑張ってるんだね。英語が得意なの? 将来の夢とかあるのかな」と言った。 「キャビンアテンダントさんになりたいの」と私は答えた。なんだか妙に素直に答えてしまっていた。 「素敵な夢じゃないか。どうしてキャビンアテンダントになりたいんだい?」 「せ、せっかく三回目なんだし、今度こそ平和な世の中に生まれたんだし、海外とか、見て回りたくない? だから……」と私はたどたどしくも、正直に答える。 「いい夢だね。きっと、叶えられるよ」と宗次郎。 「宗次郎は?」  いったい私は何を聞いているのだろう。私を捨てた男なのに。事情はどうあれ、事実は変わらないのに。それなのに、なんで。 「僕は、やっぱり雅とずっと一緒にいたいな」  宗次郎はそう聞こえるか聞こえないか分からないくらい小さな声で呟くと、またくるりと椅子を戻し、勉強机のほうに向いてしまった。 「え、なに? ねえ、いまなんて言った?」 「なんでもない。忘れて」 「ちょっと」  宗次郎は、ノートになにか書いたあと、ぱたりとテキストとともにそれを閉じる。そして、また私の方に振り向いてそれを差し出した。 「運命は、へ貴方の魂を運ぶのだ」 「え、なにそれ」 「さっきの和訳だよ。シェイクスピアだね。知ってた。実は受動態も。ただ雅とちょっとでも会話したくて、分からないふりをした。嘘ばかりつくね、僕は。君にふさわしい男じゃない。君にとってのじゃない」と宗次郎は言う。そして、また優しい笑みを浮かべた。 「ほら、そろそろ時間だ。ありがとう。来てくれて。君にまた会えて嬉しかった」と宗次郎が言った。 「ど、どういたしまして」と私は言った。  もはや怒る気力など失せていたし、気づけば怒ってすらいなかった。彼を疑う心すらどこか遠くの彼方へ消えてしまっていた。そして、知らぬ間にこんな言葉が口から出ていた。 「これからも、家庭教師続けてあげてもいいけど」 「僕が決める問題じゃない」 「でも、来てほしいんでしょ!」 「それはそうだよ。君のことが好きだから」 「じゃあ、来てほしいって素直に言いなさいよ!」  いつの間にか、声が大きくなっていた。思いっきり感情が表に出ていた。そして、ようやく自分の気持ちに気づいた。私は、また宗次郎に会えて嬉しかったのだ。私の方こそ、また会いたかったのだ。やっぱり、この男が好きなのだ。 「少なくとも、僕はこれからも君に会いたいし、今度こそ、君とずっと一緒にいたいと思っている。もし君が嫌じゃないのなら」と宗次郎は真剣なまなざしで言った。 「なによ、なによそれ。ばかじゃないの」  気づけば、窓からは眩しいくらいの夕日が差し込んでいた。私たちはふたりでその窓から差し込む茜色をしばらくの間見つめていた。うろこ雲が流れていく、赤く染まった夕暮れ空。その色が懐かしかった。あの日、前々世において、稲穂を刈っているときに見初められたときも、前世で、料亭に突如として彼が現れた日も、やはりこの夕暮れ空だった。  まるでなにかのルールでもともと決まっていることのように再会させられるこの運命。これが運命というものなのであれば、誠に残酷である。これを腐れ縁といわずして、なんと言えよう。  でも、そんな腐れ縁が、いまとなってはどうしようもなく愛しくて、心地よいと、そう思えた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!