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次の日の朝、いつも待ち合わせしていた道に唯はいなかった。
予想はしていたが、唯はかなり怒っているのだろう。
学校に着くと、すでに唯が無表情で机に座り、今日の数学の宿題をやっていた。
おそらく、昨日遅くなったので、やっていなかったのだ。
今は夏期講習期間なので、授業が3時間しかない。
また、強制参加ではないので生徒も全員揃っているわけではなかった。
どちらかというと、ランクの高い高校に合格するために、塾に通っている学生は殆ど出席せずに、それ以外の生徒が主に通っていた。
しかし、それでも7割ほどの生徒が出席していた。
「ねぇ、今日はどうしたの? 唯と喧嘩した?」
突然、目の前に入野華が話しかけてきた。
隣には荒木こころも立っている。
陽菜と唯の様子を見て、勘付いた二人がやって来たのだ。
さも、二人とも嬉しそうな顔をしていた。
「別に……、喧嘩とかじゃないよ」
陽菜はぶっきら棒に答える。
華は陽菜の前の席に座り、こころは陽菜の机に寄りかかった。
「どうせまた、唯が勝手に怒ってるんでしょ。ほっときな、ほっときな。前から言ってるじゃん。あの子と付き合うのはやめた方がいいよって」
華はそう言い、隣のこころも大きく頷いていた。
「そうだよ。私たちもさ、いつも陽菜が可愛そうだって思ってたんだよ。陽菜はいい子だもん。わざわざ、唯の我儘に付き合うことないよ」
この二人は以前、陽菜と唯と一緒にいた二人である。
2年の最初の頃は仲良くしていたが、唯の我儘に愛想をつかしたのか離れていったのだ。
そして今日は唯と離れている陽菜を見つけて、わざわざ声をかけにきたのだろう。
「でも、今回は私がひどいこと言ったし……」
すると華は額に手をあてて、オーバーリアクションをする。
「かぁ、ほんと、陽菜はいい子だねぇ。おじさん、泣けてきた」
「おじさんじゃないだろう」
つかさず、こころが華を突っ込む。
「いいんだよ、たまにはさ。ひどいことを言ってくるのはいつも唯の方なんだし」
「そうそう。たまには言い返すことも必要だよ」
陽菜は首をかしげた。
確かに、唯は我儘だし、ひどいことも言う。
しかし、だからといって華たちのように陽菜は嫌いにはなれなかった。
とりあえず、陽菜は頷いて見せた。
そして、授業開始の合図が鳴る。
「唯がいないなら、私たちが相手するからさ。仲良くしようね!」
席に戻る際に、華は陽菜に顔を近づけて言った。
そして、微かに唯の目線を感じた。
目が合うと、唯はすぐに目線をそらした。
結局その日は、唯は一度も陽菜のそばに来なかった。
陽菜も唯に声をかけることができないでいた。
あんなにひどいことを言って、なんと言い訳していいかわからなかったのだ。
休み時間の間、毎回華が陽菜の席にやって来た。
まるで、唯を陽菜に近づけまいとしているようだ。
そして、放課後も帰宅部である二人が陽菜を誘いに来る。
陽菜はちらりと唯を見た。
唯は荷物をまとめて、すぐに部活に出て行ってしまっていた。
陽菜が荷物を鞄に詰めていると、鞄の中に昨日買わされた単行本が入っていることを思い出した。
それを、紙袋から出して、眺めた。
今時流行らない表紙のイラスト。
単純なタイトル。
普段の陽菜なら絶対買わない本だ。
すると、そんな陽菜を華が覗きにきて、陽菜の手からその本をひょいと取り、ぺらぺらめくり始めた。
「陽菜ってこういうのが趣味なの?」
意外そうな目で、華は陽菜を見る。
陽菜は首を横に振った。
すると、後でやって来たこころが話しに加わって来た。
「へぇ、武者小路実篤ね…。あんまり聞いたことないけど。純文学なら、太宰治や夏目漱石とか、森鴎外なんかの小説がいいんじゃない?」
「ええ、そんなのつまんないよ。宮部みゆき先生とか東野圭吾先生とかがいいよ。やっぱり小説はミステリーだよね」
華は興奮した様子で反発した。
「そりゃ人気作家だし、おもしろいけど、今後のこと考えて有名どころの古典文学を読んだほうがいいよ。読んでいるって言ったら、一般的に受けもいいしさ、試験勉強でも使えるでしょ?」
「こころは真面目だな。そんな娯楽の読書で勉強のことなんて考えたくないよ!」
そう言って華は、陽菜に本を返した。
華やこころが言うことはすごくわかる。
だからこそ、なぜあの店員はこの本を薦めたのか、わからなかった。
「今からイオンモール行くんだけど、陽菜は行く?」
華は鞄を持って、陽菜に聞いた。
陽菜は悩んだが、たまには唯以外の子とも遊びたかったので、了承した。
三人が外に出たときには、日照りは最高潮だった。
グランドには陸上部や野球部、サッカー部がそれぞれ練習に勤しんでいる。
テニスコートには素振りをするテニス部の掛け声や吹奏楽部のチューニングの音、演劇部の発声練習の声が響いていた。
陽菜はちらりとバレー部の練習する体育館を見た。
もう、すでに練習は始まっているようだった。
三人でおしゃべりをしながら歩いていくと、目の前に野球のボールが転がって来た。
三人はボールを見つめ、グランドに目をやる。
そこには、ボールをとってもらおうと野球部の部員が手を振っていた。
その向こうに室井の姿があった。
汗をかきながら、じっと陽菜を見つめているように感じた。
陽菜の鼓動が激しく鳴った。
自分なんて見ているはずがないと思いながらも、陽菜も目線を離せないでいた。
凛々しい眉毛に力強い瞳。
陽菜はなんだか、室井のその瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚がした。
その間に、華がボールを拾って野球部員にボールを投げる。
受け取った部員が帽子を取って、お礼を言った。
その声で陽菜は我に返る。
別の方向から目線を感じた気がして、体育館に目を向けた。
そこに唯が立っていたような気がしたからだ。
唯が驚いたような顔で陽菜をじっと見つめている感じがして、自分の気持ちがばれたのではないかと怖くなり、陽菜は急いで体育館から目線を外す。
そして、華たちと並んで門を出て行った。
室井の力強い目線と唯の顔が交互にフラッシュバックした。
結局、陽菜は華たちと一緒に遊びに行かなかった。
家の手伝いがあることを忘れていたと言い訳をして、今回は見送ったのだ。
華たちは嫌な顔はしなかった。
別れ際に、手を振って見送った。
もし、これが唯相手なら、ひどく怒っていただろうと陽菜は思った。
陽菜は一人で公園の木陰のベンチに座っていた。
そして、単行本を手に取って、ぱらぱらとめくる。
正直、読む気にはなれなかった。
もともと、お店の店員に押し売りされたものだ。
無理に読む必要はない。
それよりも、こころが言ったような文豪達の誰もが知る古典文学を読んだ方がいいだろうと思った。
すると、そこへ一人の女性が現れた。
手には、酒屋のビニール袋を持っている。
陽菜はその女性を見たことがある気がし、思い出した。
本屋の店員の芽衣子であった。
「お悩みは解決した?」
芽衣子は挨拶もなしに、飄々とした顔で聞いてきた。
陽菜はむっとした表情になる。
「そんな風に見えますか?」
「見えないね」
そう言って、芽衣子は陽菜の隣に座った。
陽菜は少し右に避ける。
「こんな暑い日に、一人で公園にいるなんて、いかにも悩んでいますって感じだね。で、友達には話せたの?」
「話せていません。でも、言う前に他のことで傷つけちゃいましたし、悩む前に友情が壊れました……」
ふぅんと言って、芽衣子は袋から缶ジュースを取り出した。
そして、それを陽菜に渡した。
陽菜も一先ずお礼を言って受け取る。
「陽菜ちゃんは優しいね。いつも、友達に気を使ってあげている」
陽菜は顔を上げて、首を横に振った。
「優しくなんてありません。私は昨日、友達に彼女の好きな人と彼女が付き合えるはずがないって言ったんです。」
「でも、それが君の本音だろ?」
その瞬間、陽菜は言葉を失った。
芽衣子の言うように、唯が室井と付き合えないと思うのは本当だ。
しかし、本音だからといって言っていいわけじゃない。
芽衣子は黙り込む陽菜を横目で見ながら、語るように話した。
「本当のことを言えない友人を親友と呼べるのかな。君にとって大事な人なら、本音を話すべきだ。そしてもし、それを受け入れてもらえなければ、それは君の思う友情ではなかったってことだよ……」
「いやでも……、私には言えません。言ったら傷つけるってわかっているから」
陽菜はぎゅと拳を握っていた。
「なら、言わなければ、誰も傷つかないの?」
「それは……」
芽衣子は手に持っていた缶ジュースの蓋を開けた。
陽菜は何もいえないまま黙っている。
誰も傷つかないわけじゃない。
事実、唯を傷つけているのだ。
ただ、今回のようにまた同じことをしてしまうと思うと怖かった。
「『誰かを傷つけるのが怖い』のではなくて、誰かを傷つけることで自分が傷つくことを恐れているのじゃないかな?」
陽菜は勢いよく顔を上げた。
「違います! そんなことはありません!!」
「じゃあ、君は友達に対してどうしてあげることが、最も友達のためだと思う?」
陽菜は何も言えなかった。
正直わからないのだ。
室井が唯の魅力に気がついて、唯と付き合うとは思えない。
しかし、唯に室井のことを諦めさせることも出来ない。
また、応援したところで、唯の望む結果にはならないし、陽菜の心にも唯に室井を取られたくないと気持ちも沸いてくるのだ。
だから、おそらく素直に唯を応援することなど出来ないだろう。
「シェイクスピアの脚本で、『友情は不変と言っていいが、色と恋が絡めば話は別である』というセリフがある。恋が絡むと友情が壊れてしまう。恋と友情とはそういうものなのかもしれないよ?」
「そんなの……、おかしいです! 恋なんかで、友情が壊れるなんて……、そんな悲しいことあるはずないんです! それはその人たちが自分勝手だからそうなるわけで……、私はそんなんじゃない!!」
芽衣子はなぜかにっこりと笑った。
陽菜は意味がわからなかった。
「君は頭がいい。だから、悩む。君は答えを知っているのだけれど、それを自分で認めたくはないのだよ。そういう時は物事をもっと客観的に見たほうがいい。そのためにも本はある。本を読んだら、自分をもっと客観的に見られるからね」
陽菜は手に持っていた本を見つめた。
この本を読んで自分の悩みが解決するとは思えない。
ただ、だからといって捨てる気にもなれなかった。
芽衣子は椅子から立ち上がり、陽菜の方へ振り返った。
「ねぇ、陽菜ちゃん。言葉にはね、不思議な力があるのだよ。言葉は見えないものだけど、人を喜ばせたり、逆に傷つけたりも出来る。言葉はね、伝えるためにあるんだ。それは、相手にも、そして自分にもね。君にはちゃんと考えられる頭を持っている。そして、何かを伝える言葉を持っている。君が思っている以上に、今、君が出来ることは本当にたくさんあるんだ」
陽菜は一瞬固まったが、急におかしくなって笑った。
「お姉さんって、おかしい……。まるで詩人か作家みたいなことを言うのね」
「まぁ、そうかもね……」
そう言って、芽衣子は公園から出て行った。
陽菜は独り、今までの違った気持ちでその本を見つめていた。
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