第6話 タコ

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第6話 タコ

 バイトの面接は通らなかったが、ひょんな所から仕事が決まってしまった。熊野が色々相談にのってくれ、元同級生にも雨子の話をしていたらしい。その一人・相沢椿子が家事手伝いが人手が欲しいというので、雨子にやって欲しいけどという話だった。椿子の家は金持ちで大きな洋館に住んでいる。最近はお手伝いさん達もなぜか体調不良が相次ぎ、困っていたらしい。  椿子は気の強いお嬢様タイプで苦手だった。当時からリア充っぷりを発揮し、クラスでの浮いていた。委員長だった雨子は、そんな彼女の世話も押し付けられた事もあり、正直良い印象はない。それでも、今の状況でワガママなど言えず、仕事を受ける事にした。むしろ幸運な状況だ。文句を言える立場にない。  明後日は初出勤日だったが、緊張して眠れず、熊野のおでん屋に足を運んでいた。今日は細い月が見えていた。深い闇のような夜空を見つめていると、初出勤への不安が押し寄せてきた。椿子と会うのも、心から楽しみとは言いがたい。今は大学に通い、今後は大学院にも進むらしい。エリート街道を歩んでいる椿子とは、もう同級生気分では会えない気もしてきた。 「という事で、緊張しちゃって眠れないのよ。熊野にはありがたいけど、どーしたら」  おでん屋のカウンター席に座ると、ついつい愚痴が漏れる。おでんの鍋からは、ふわふわと湯気が溢れていた。同時に良い香りもする。今日は少し香りが違う。あっさりというか軽い香りだった。 「もう、決まったものは仕方ないよ。あんまり深く考えたらダメ」 「まあ、おでんでも食べよ。今日はスープを関西風にしてみた。悩んで委員長には、あっさり味が良いかも?」  熊野はそう言い、器におでんスープをすくう。確かに今までの関東風のスープより色が透明感があった。具は大根を入れてくれたが、その色もいつもより透明だ。今日の代金はクリスタルのような輝きがあるように見えた。 「わぁ、美味しそう」 「美味しいもの食べて、バイトの事は忘れてよう!」 忘れよう!」  そんな雑な励ましだったが、今は熊野の声が優しく聞こえてきた。確かに熊野のおかげで引きこもり生活は終われそうなので、ありがたい話だった。大根も意外と甘みがあり、いつものスープとの違いが楽しい。  ちらちりと鍋の方を見ると、牛筋やタコ、ロールキャベツなども入っていた。いつもは見た事の無い具材だった。もしかしたら出汁に合わせて具材を変えているのかもしれない。 「関西風のスープでおススメの具材はある?」  そんな話をしながらも再び良い香りが鼻をくすぐり、お腹が減ってきた。 「今日はタコだね。タコって何か形が面白いし、おめでたい雰囲気無い?」 「そう?」  雨子が首を傾げていると、熊野はタコが入った器を置く。  目の前にタコをまじまじと見てみる。串にささり、くるっとしたタコは見た目が面白い。よく見ると丸い吸盤も可愛い。確かにおめでたい雰囲気はある。そう言えばタコ焼きもお祭りで食べるイメージがある。タコはおめでたいイメージは確かにある。そんなタコを見ていると、初出勤への緊張はほぐれてきた。 「食べてみて」  笑顔の熊野に促され、串が刺さったタコを口に運ぶ。串の刺さった食べ物というのも、特別な感じがする。ご飯と味噌汁の通常の食事では無いものだ。  タコのコリコリとした食感が楽しい。ジュワッと味が口の中で広がり、美味しい。これは関西風のあっさりとしたスープがよく合う。おでんの具は割と何でも合いそうな素直さを感じるが。 「美味しい」 「よかった。委員長、笑顔になってる」  指摘されたが、その自覚は雨子にはなかった。 「タコはビタミンBが豊富で気分の落ち込みにも良いって言われてる」 「へー。タコは鬱にも良いの?」 「まあ、このくるっとした形からして、憂鬱な食べ物には見えないよ」 「確かに」  タコのキャラクターも能天気で明るいものが多いイメージがある。頭の中でタコのキャラクターをいくつか思い出していると、ふっと笑いたくなってきた。 「はは」  思わず笑ってしまう。タコは何か人を笑顔にするものがあるらしい。 「ところで委員長。準備は大丈夫? 身だしなみはもちろん、メモ帳やペンの準備とかしてる?」 「あ、やってない」 「明日はちゃんと準備しておいたほうがいいよ。このタコも準備しないで茹でると硬くなったり、案外難しいからね。今は下茹でするのが一番って気づいたけど、重曹や大根おろしに漬けたり、色々試行錯誤してた」 「そっか」  こんな美味しいおでんも下準備の苦労の上で成り立っている。雨子も初出勤の準備もしっかりしようと思った。 「まあ、もう一個タコ食べる? 気分ももっと明るくなってくるはずだよ」 「そう?」 「うん!」  熊野は自信満々だった。 「自信も大事だよ。これがあるように見せれば、何とかなる!」  再び熊野に励まされてしまった。鼻の奥がツンと痛み、泣きたくなってきた。悲しいのではなく、ありがたくて泣きたくなる。自分は独りでは無いのかもしれない。 「大丈夫かな?」 「うん。委員長は頭良かったじゃん? 何とかなるから」  再び温かいおでんスープをすする。口に中も温かいが、心もホカホカになってきた。気づくと、不安は取れていた。 「委員長は大丈夫!」  熊野の笑顔を見てたら、再び泣きたくなってきてしまった。
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