第2話 大根

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第2話 大根

 屋台の店主は、中学の時の同級生だった。名前は熊野聡という。当時から勉強が出来なかた聡に色々教えていた記憶がある。  中学生の時は、雨子も優等生で委員長などやっていた。両親ともに医者で、雨子も成績がよく期待されていた。もっとも今は医学部に進んだ兄が優秀だったが。雨子もそこそこ良い私立大へ進学できたわけだが、高校までと違い主体性を求められる大学生活に馴染めず、すっかり病んでしまっていた。思えば今までは暗記力でどうにかしていた。それだけで人生を渡っていくほど甘くは無いという事なのだろう。 「委員長、もしやニートでもやってるの? 噂で聞いたよ」  熊野はそんな事まで知っている。思わず心の中で舌打ちを打ちそうになるが、ここは田舎なので仕方ない。  久々に再会した熊野は、だいぶ痩せていた。中学の時はぽっちゃりとし、苗字の通りに本当にクマぽい見た目だった。なぜか女子からも「クマちゃん!」と言って好かれていたが。今は、ほっそりと痩せ、色も陽に焼けて健康そうだった。白シャツにジーパン、エプロン姿だったが、ほのかに出汁の良い香りがする。熊野の側にいるだけで、お腹が鳴りそうだった。当時より背も伸び、雨子は彼を見上げていた。もう、自分は委員長でも何でもないし、熊野に偉そうな事は言えないなどと思ってしまった。そういえば熊野は目鼻は意外と整っていた。今だったら普通に彼女でもいそうには見えた。 「推しおでんって何?」  雨子は熊野から赤提灯に視線を動かして聞く。 「これ、うちの店名。好きな具材を推しのように楽しんで貰いたくてね。どれでも一つ二百円だよ。揚げ物もお酒もあるよ」  熊野はニコニコ笑いながら営業トークをしてきた。出汁の良い香りに、揚げ物、お酒……。惹かれないわけは無い。しかし、店頭で座って食べるのはハードルが高い。しかも、店主が中学の時の同級生の熊野。面と向かって話したい気分でも無いが。 「まあ、持ち帰りもあるよ。委員長には、特別に奢ろう!」  そんな事まで言われてしまうと、断れない。雨子は、とりあえず屋台の椅子に腰掛けた。目の前には大きくて四角い鍋がある。そこには、大根、卵、こんにゃく、ソーセージなど濃い色のスープに浸かっていた。ふわふわと淡い湯気が漂い、さらに良い香りがする。コンビニのおでんより香りも見た目も美味しそうだった。スープの色が濃いめで、これは関東風の出汁だろう。ここを見ているだけで、雨子の緊張感も抜けてきてしまった。何よりお腹がとっても空いてしまう、ぎゅうーと音を立てていた。  思えばこの生活になり、家族の残り物やコンビニ食ばっかり食べていた。「働かざるもの食うな」という言葉がの意外とのしかかり、美味しいものなど罪悪感があって食べられなった。 「あの、持ち帰りできる?」 「いいよ! とりあえず適当に詰めるわ」  熊野はニコニコ笑いながら、お持ち帰り用の容器に出汁をおたまですくう。その後、トングを具材を適当に入れていく。 「本当に適当でいいの? 好きな具材とかないわけ?」  さっきまで笑っていた熊野だったが、雨子が特に希望も言わないので、首を傾げていた。  そう言われても希望はない。思えば、父も母も不機嫌でいる時が多く、自分の意見を封じ込む癖ができていた。大学も母の希望先を選んでいた。 「いや、別に何でもいいし」 「ダメだよー。うちの店では推しおでんを一個ぐらい決めて」 「なにそれ、常連ルール?」 「うん。お客様の推しおでんがあると、こっちも仕込みがしやすいからさ」 「ふーん。でも、どれが美味しいかわかないし」 「よし! だったら今日は大根を推しましょう!」  熊野はそう言うと、トングで大根をすくい、お持ち帰り用の容器に入れらた。スープが染み込み、半透明になっていた。屋台のオレンジ色の照明に照らされ、余計に美味しそうに見えてしまったが。 「大根は、何より栄養素が高いのが良いですね。これが推しポイント。炎症を鎮める作用もあるから、喉が痛い時もいい。消化も助けるから、夜遅い食事にもピッタリだ」  大根のプレゼンをされてしまった。熊野の声はよく通り、意外と説得力はあった。 「心が怒っている時もきく?」  我ながら意地悪な質問だとは思ったが、そう聞いてしまった。 「さあ。でも、おでんの大根は良いものです」  はっきりと断言していた。ここまで自信満々で言われると、否定はできない。  雨子は袋に入ったおでんの容器を受け取り、帰る事にした。 「委員長、また来てね。色々食べて推しおでんを決めようじゃないか」  熊野は最後までニコニコ笑っていた。  こんな人だっただろうか。中学の時は勉強もできず、マイペースなキャラだった。今は立派におでん屋を運営しているようで、何だか取り残されて気分にはなる。それでも、美味しい出汁の匂いには抗えない。  さっそく家に帰り、テイクアウト用の白い器を開けてみた。家族は寝静まり、家のリビングはもう誰もいない。台所の小さな灯りだけつけ、食卓につく。雨子の家の食卓は台所と地続き場ので、少し明るくなった。  まだ容器は温かった。さすがに湯気は出てないが、それでも容器を触ると指先が温かい。 「いただきます」  一応そう言って食べる事にした。容器の中には、ちくわ、こんにゃく、ゆで玉子、ソーセージも入っていた。もちろん、大根も入っている。数センチの厚みのある大根は、スープにつかり、半透明になっていた。薄暗いこの食卓で見ても、透明感はある。  割り箸を割る。袋に割り箸と使い捨ておしぼり も入っていた。熊野の細かい気遣いに、グッとくる。  大根は、ほろっと柔らかく舌の上で溶けた。スープは甘辛く、濃い味だったが、不思議とくどくない。おそらく、醤油や昆布ばど良い素材を使っていそうだった。コンビニのおでんは、ちょっとくどい。  袋にはミニパックの辛子もついていてので、それも少しつけて大根を食べる。 「いや、これは美味しいわ……」  辛子をつけて食べたら、さらに美味しく感じてしまった。  推しおでんか。  思えば、今までの自分は好き嫌いも他人の価値観で生きて来た。進路も親が決めた。でも、大学は授業も一つ一つ自分で決めなければならない。道理で大学の環境が合わないわけか。  美味しい大根を食べながら、自分の問題が見えてきた。たぶん、自分が無いのが一番の問題だった。食べ物や洋服の好き嫌いもなく、全部無難、普通、他人の目を判断基準にしていた。学校の勉強も「怒られるのが嫌」というのが大きな動機となり、焦りながらこなしていた。中学では委員長をやっていたが、単なる義務感。思えば自主的に何かをやった事もなかった気がする。 「好きな推しおでんぐらいは、自分で決めたって良いのかな……」  そんな気がしてきた。  あの熊野の店にあったおでん鍋を思い出す。いろんな種類があった。とりあえず全部食べてから、推しおでんを決めても良いかもしれない。  明日の夜も熊野のおでん屋に行ってみよう。雨子は初めて自主的に何かを決めていた。こんな小さな事なのに、胸はワクワクとしていた。
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