60人が本棚に入れています
本棚に追加
/125ページ
車から降りた瞬間、わたしは夢を見ているのかと思った。信じられないことが起こったとき、人は本当に頬をつねるのだと悟った。
小さい頃から法事がある度に何度も通った古びた小さなお寺。一年前もここへ来た。大きな悲しみを抱えて。敷地の奥の方から漂ってくる線香の香りをかぐと、あのときの悲しみと喪失感が蘇ってきそうだ。今日が晴れていてよかった。もし一年前と同じしとしと雨だったら、悲愴感で胸がふさがって、とてもそこへ足を踏み入れられそうもなかった。
門をくぐり、仏花と水桶を片手に石畳を歩いて行くと、まさかまさかと思ったが、やっぱりそれがそこにあった。お水をかけ何度も洗ってあげた墓石。鼻の奥がツンとしてきて、涙が一筋流れ落ちる。
黒田家の墓。
つやつやと光沢を放つ黒御影石。先生はその前に水桶を置き佇んだ。
もう少し奥まで入ると、落合家の墓もあるはずだ。優しかった祖父母がそこで眠っている。
「先生、黒田家とは?」
「僕の大切な人がここに……」
「去年……先生の……」
「そうだ……。去年、旅立った。僕の大切な人だった。あんなに愛しあっていたのに……」
ということは、先生が愛した女性というのは……。
今になってやっとわかった。だれに挨拶に行くのかと問われ、先生が指で示したのはあるはずもない二階ではなかった。もっともっと上にあるところ。天の御国。
最初のコメントを投稿しよう!