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第一話 嵐の前夜
雑居ビルの立ち並ぶ街を黒塗りの車が夜闇に紛れるように走る。後部座席で窓の外を眺めながら、組の金を持って女と飛んだ男が、俺の前で土下座して命乞いをしていた数時間前の出来事を思い出す。殴りつけた拳が頬骨を折った時の感触が、右の手の甲にまだ残っている。
「兄貴、結構遅くなっちまいましたねぇ」
運転するのは俺の舎弟の三又賢太だ。
俺がヤクザになって三年経った頃、親父に俺の下につけて貰ってから、もう二十年近い付き合いになる。年は俺より二つ上だが、生来の子分肌のせいで当時から弟分であることに違和感がなかった。
左腕の時計に目を遣る。黒の文字盤に浮かび上がっている白の短針が、頂点より右に振れている。
「もう寝てるかもな」
「いやいや、兄貴が来る日に寝てるわけないっすよ」
「寝ていてくれた方が俺はいい。夜更かしは身体に悪いからな」
賢太は慣れた道を減速して右に曲がり、いつも通りの安全運転で車を走らせる。
「兄貴、もう二十三ですよ。夜遊びどころか徹夜で遊んで朝帰りしたって――」
「ふざけるな。あいつはそんな不良じゃねえ」
舌打ちして脚を組み替えると、賢太は「まあ兄貴にはいつまでも可愛いイロっすもんね」と何か含みのある言い方をした。
「……イロ?」
「知らないんすか? 兄貴には誰にも言ってねえ、皆に隠すくらいとびっきり美人のイロがいるって噂になってるんすよ」
「誰だそんな噂流してる馬鹿は」
溜息を吐き、つい癖でコートから煙草を取り出したが、そのままシートに投げた。これから会うというのに臭いをつけていくわけにはいかない。
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