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第一章 ③
この日も何事もなく診察が終わり、診療所を閉めようと千鶴は表の掃き掃除をしていた。
すると目の前に、この辺りではあまり見かけない自動車が止まる。
診療所の周辺は下町の庶民が集まる地域で、自動車を持っている者自体少ない。
急患の患者であれば、少し離れた大きな病院に行くだろう。
不思議に思いながら、千鶴が車を見つめていると、運転席からスーツを着た男性が降りてきて、後部座席のドアを開けた。
出てきたのは、体格のしっかりとした壮年の男性。
見上げるような背丈に、仕立てのよいスーツをまとい、口ひげを蓄えた顔は厳めしい。
男性の威圧感に、千鶴はこころともなく箒の柄を握る手に力を込める。
それでも勇気を出して、男性に声をかけようとした。
が、男性は千鶴が声を出す前に、千鶴の目線に合わせていきなり腰を折る。
眼前に険しい顔が来て動けなくなった千鶴に、男性は厳しい顔から一転、くしゃくしゃなしわができるほどの笑みを浮かべる。
予想外の笑顔を向けられた千鶴は、あっけにとられ、先ほどとはまた別の意味で動きを止める。
そんな千鶴の様子を察してか、男性は
「すまない。自動車で来てしまい、少し驚かせてしまったかな」
と少し的はずれではあるが、低く優しい声をかけてくれる。
その声に千鶴は、はっとし、いえと言葉を返す。
男性はそれにほっとしたような顔になると、
「西野先生はいらっしゃるかな」
と千鶴に尋ねた。
西野先生とは千鶴の父のことだ。
「父はおりますが・・・。失礼ですが、父とはどういったご関係でございましょうか」
千鶴が恐る恐る尋ねると、
「これは名乗らずに失礼。私は、南山という者だ。帝国大学で医学の教鞭をとっている。
西野先生は昔、大学で私の助手をしてくれていたんだ。
その関わりで少し頼みたいことがあり、急で申し訳ないが尋ねさせてもらった」
南山は穏やかな表情のまま、丁寧に説明してくれる。
千鶴はそれに納得すると、
「そうだったのですね。大変失礼いたしました。父は奥におりますので、ご案内いたします」
そう言って南山を家の中に迎え入れた。
*
千鶴は応接間に南山を通すと、診察室にいた父に声をかける。
「お父さん。南山様という方がいらっしゃいました」
診察具の消毒をしていた千鶴の父は、娘が告げた言葉に動きを止める。
「南山・・・」
そして確認するように千鶴が告げた名前を繰り返すと、持っていたハサミを机に置き、しばし俯いた。
唇を少し内側に巻き込むような表情で考え込む父を千鶴は訝しみ、再び声をかける。
「お父さん、どうされました」
その声にはっとした様子で父は、
「なんでもないよ。久しぶりにお会いするから、少し懐かしい気持ちになってね。
応接間にいらっしゃるのだね。すぐに行くよ。
千鶴、すまないがお茶を頼めるかな」
そう早口で言うと、急ぎ足で部屋を出た。
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