魔女と月の狼

食べてしまいたいほど、きみが好き３

「もし来ないようなら、反対側の頬にも傷をつけようかしら」
「それより首のほうが早い」
「あら、それもそうね。首なら出血も多いだろうし、鼻が詰まった狼でも気づくわ」

「うふふ」と笑う女の声に「鼻づまりの人狼なんて聞いたことないけど」という声が重なった。森の入り口とは反対側に視線だけ向けるとガルが立っている。

「あら、やっぱり隠してたんじゃないの」
「案外早く現れたな」
「またおまえらか」

　二人をちらっと見たガルが無表情のまま僕に近づいて来た。「ガル！」と名前を呼びたいのに、首元の蛇がきゅうっと締めつけてきてやっぱり声が出ない。

（来ちゃ駄目だ！）

　二人の魔女は本気でガルを掴まえようとしている。マイニィの能力はわからないけど、ソルが蛇を自在に操れることはわかった。おそらく人狼に関する知識も持っているのだろう。ヤルンヴィッドの森の歴史を深く知るのが怖くて、人狼のことを昔話でしか知らない僕とは雲泥の差のはずだ。
　そんな二人ならガルを掴まえる何かしらの手段も用意しているはず。身体能力が高いと言われる人狼でも、絶対に捕まらないという保証はない。僕のことなんて気にせず逃げてくれと横目で必死に訴えた。

「なに蛇なんかに巻きつかれてんの」

　ガルがそう言った途端に、首元に絡みついていた蛇がシュルシュルと解けた。それを皮切りに腕や体に巻きついていた蛇たちもシュルシュルと解けていく。最後に手首を締めつけていた蛇がシュルと解け、地面に下りた蛇たちが一斉にガルのほうへ這い始めた。

「ガル、」

　危ないと言いたくて名前を呼んだ。それなのにガルは少し眉を寄せただけで「俺、怒ってんだけど」と口にした。

「この人の体に勝手に絡みつくとか、やってもいいと思ってんの？」

　エバーグリーンの眼が地面を這う蛇たちを睨んでいる。もしかして蛇に言ったんだろうか。そんなことより早く逃げろと言いかけて、蛇の動きがぴたりと止まっていることに気がついた。ガルが一歩踏み出すと、慌てたように蛇たちが道を空けて脇のほうで塊になる。

「ソル、蛇たちが逃げてるじゃないの！」
「……駄目だ、言うことを聞かない。俺の指示に従わないなんて初めてだ。これも人狼の力なのか？」
「知るか。蛇が勝手にしてることだろ」

　ガルの返事にソルが赤い眼を細める。

「銀の狼は謎の部分が多い。そういう意味でも、とても興味を引かれる」

　感慨深げな言葉に、マイニィが「ちょっと！」と声を荒げた。

「このままじゃ逃げられちゃうわよ！　早く蛇で何とかしなさいよ！」
「無理だ。使役の威力を強めても俺の声を聞こうとしない。このままじゃ蛇たちが木っ端微塵になる」
「……っ。何なのよ、この人狼」
「わからない。これまで調べたどの人狼とも違っている」

　二人が話している間もガルは歩き続け、ついに目の前に来た。「何やってんだ」と言いながら僕の両肩に触れたかと思うと、そのまま抱き寄せられる。

「あんたも魔女だろ。いいようにされてんじゃない」
「……ごめん。ちょっと、いろいろ間に合わなくて」
「ま、そういうところも可愛いけど」
「ガル」
「ガバガバなあんたを守るのは俺の役目だしな」
「……ガル」

　ぎゅっと抱きしめられて少しだけ涙が出た。蛇たちから解放されてホッとしたからじゃない。いや、それも多少はあるけど、ガルの温かい腕が無性に嬉しくてこみ上げるものがあった。

（僕はやっぱりガルが好きだ）

　だから、僕もガルを守りたい。人狼を捕らえるための森だったヤルンヴィッドの森は、ガルを守るための森になる。僕がそうする。
　ガルの胸から離れて、近くにあるエルダーの木に触れた。すぐさま樹脈がふわりと温かくなり枝がざわざわと葉を揺らし始める。

「マイニィ、空気が変わった」
「わかってる」

　二人がそう口にした次の瞬間、地面がボコボコと盛り上がった。膨らんだ土の中からロープのようなものが飛び出し、二人目がけて波打つように動く。しなやかな鞭のように動くそれはエルダーの根だ。二人はすぐさま反応し、近くの木の枝に飛び退いた。
　逃がさないとばかりに二人目がけてエルダーの枝がヒュンと飛ぶ。躱して地面に戻ったマイニィの頬には赤い筋が一つ浮かんでいた。同じように隣に降り立ったソルは服の左腕部分が破けている。

「ちょっと！　女性の顔に傷をつけるなんてひどいじゃない！」
「おまえの顔なんかどうでもいい。アールンの可愛い顔に傷をつけたほうが罪深いだろ」

　挑発するような言葉に慌てて「ガル」とたしなめた。ちらりとも僕を見ない無表情の横顔は、もしかしなくても怒っているのだろうか。いつもより鋭いエバーグリーンの眼がじっと二人の魔女を見つめている。

「なによ！　あたしのほうが綺麗な顔じゃないの！　綺麗なものに傷をつけるなんて最低！」
「その程度で綺麗とか笑わせる。人の街にはもっと綺麗な女が山ほどいるけど？」
「なんですってぇ！」
「マイニィ、」

　ソルが声をかけるのと同時にマイニィが宙に舞った。振り上げた右手から何かが放たれる。「きっとガルにとってよくないものだ」と思った僕は、咄嗟にガルの腕を引こうとした。それより先に僕の腕を掴んだガルが庇うように僕の体を抱き込む。

「……っ」

　息を呑む音と肉を貫く嫌な音がした。

「ガル！」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ！」

　慌てて背中を見れば、何本もの太い針のようなものが突き刺さっていた。見たことがないものだけど、おそらく鉄で作ったものに違いない。それに何かしらのまじないがかけられているのか、触れようとした僕の手がビシッと弾かれた。その衝撃で傷口からさらに血が流れ出す。

「それは人狼を捕らえるために作った専用の道具よ。昔の道具に改良を加えているから、そう簡単には抜けないし傷口が癒えることもないわ」
「マイニィ、あんなに突き刺すなんて駄目だ。傷のせいで繁殖力が落ちたらどうする」
「だって……」
「すぐにカッとなるところがマイニィの悪い癖だ」
「でも、」

　二人が何か言い争い始めた。その隙に針のようなものをどうにかしなければ。二人の魔女を目の端に留めながら、僕は首を伸ばして傷口に目を向けた。