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「紗莉、透子さんが夕飯食べてけって」
子供達とのお絵描きが終わり、一緒にお茶をいただいた後、少しだけ一人で庭園を鑑賞させてもらっていた私の元に、真昼が戻ってきた。
二人とも服が絵の具で色鮮やかになっていて、微笑ましくて顔を見合わせて笑った。
「……ありがとう。ここに居ると、すごく落ち着く」
木の温もりに溢れた、笑い声の響く室内も、柊の木が揺れる可愛らしい庭園も。
「ね、さっきいただいたクッキー、美味しかった。真昼が作るものに似てて」
平べったい大きなチョコチップクッキー。
一口食べただけでわかった。
真昼はこれを真似して作ってくれていたんだって。
「昔、紗莉が気に入って食べてたから」
真昼が柔らかく笑う。
こんなふうに大切にしてもらっていたのに、何故私は思い出せないんだろう。
そもそも幼い頃の記憶は、断片的にしか残ってない。
まるで真昼との思い出だけが、すっぽりと抜け落ちているように。
『解離性健忘ってご存じ?』
そんな進藤さんの言葉が蘇って、僅かに頭痛が疼いた。
「思い出せなくて、ごめんなさい」
俯く私に、真昼は言った。
「……紗莉さ、昔ここで泣いてた俺に言ったんだ。『親がいないって、そんなに不幸なことなの?』って」
真昼の言葉にゾッとする。
「私、そんな無神経なこと言ったの?」
申し訳なくて、愚かな自分に心底嫌気がさして腹立だしかった。
だけど真昼は、何故か嬉しそうに笑う。
「無神経じゃないよ。俺は嬉しかった」
「……嬉しかった?」
「ああ。紗莉は俺のことを、可哀想な子供にしなかった。憐れんだり、同情したりしないで。どこにでもいる一人の人間として、見てくれたんだ」
真昼がふとした時に少年のような顔になる理由がわかった気がした。
真昼の心にはまだ、幼い頃の彼が暮らしている。
そっと真昼の頭を撫でた。
彼の艶やかな黒髪は柔らかくて、胸がぎゅっと締めつけられる。
真昼の抱える静かな寂しさが手に伝わっていくようだった。
それはちっぽけな孤独なんかじゃなくて、誰しもが隠している、生きることそのものの寂しさだ。
彼の心に寄り添いたい。
そんな気持ちになるのは、生まれて初めてのことだった。
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