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人の疎らな神社の敷地のはずれ。竜星は日陰の恩恵が受けられる場所で居眠りをしている黒髪の男の傍らに立つと、その場に腰を下ろして彼の端正な顔立ちを眺めていた。険を含んだ眼は瞼に覆われてその鋭さを隠しており、普段の印象よりも幾分幼さを覚える。竜星は目の前の頬に手を伸ばすとやわい肌をそっと撫でた。──日焼けの名残がない白い肌を慈しむように撫でながら、腹の中に湧き上がる内腑を灼く罪悪感に善性の氷水を浴びせかける。心の中に隠している感情は決して口に出さないから、寝ている間に触れる事だけはどうか許して欲しいと心の内で詫びながら。
竜星は、乾いた唇で男の名前を呼んだ。
「冬馬」
──長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。奥の瞳は眠気に苛まれているのか右へ左へ視線をさまよわせていたが、その眼が像を結んだと思しき瞬間、竜星は急いで手を離した。
「……竜星」
名を呼ぶ声はコーヒーに角砂糖をこれでもかと放り込んだような、信頼と、友愛と、慈悲と、優しさと──その他諸々の思いが溶け残ってカップの底にざらついているような、ひどく甘く掠れた声だった。それだけの感情を溶かし込んでも尚、冬馬の声に竜星と同じ思いは入っていない。
「もしかして俺、また寝てたのか?」
「気持ち良く爆睡してた」
「はは、ごめんごめん。最近溜まってた本の続きを読むはずだったんだけどな……」
「いやまぁ、気持ちは分かる。ここは静かだし読書に最適だけど、こうしてると眠くなってくるな」
冬馬は傍らに置かれていた本を引き寄せ、竜星との間へと置いておく。
「せっかくだから竜星も少し寝ないか」
「──通りすがりの奴に一度寝たらなかなか起きない奴の面倒を見るのを任せるのは可哀想だろ、心配して人を集められても困るから起きておく」
「それもそうか、ならせっかくの申し出だしまた竜星に起こして貰おうかな。起きるまでここに居てくれるんだろ?」
「まあな」
他愛のない会話を交わしながらも、冬馬の瞼は徐々に緩く下ろされていく。竜星は手を伸ばして瞼の上に日除けを作った。寝付くまでならこんな戯れも許されるだろう。
「──竜星、」
……意識が深く沈む前の、夢見心地の声。そんな声で呼んでくれるなと竜星が首を左右に振れば、前が見えていないはずの冬馬は唇だけで薄い笑みを形作る。──いやな笑い方だった。欲が渦巻く胸中に冷たい手を差し入れられるかのような、背筋の粟立つ笑みだった。
そうして、不意に冬馬は告げた。
「……お前は『その感情』に蓋をするから歪な在り方になってしまうんだよ。善性で固められた心は確かに綺麗だけど、俺が知りたいのはその奥だ。殻を叩き割って孵化するお前の本質が見てみたい。
──なあ、竜星、ひとつ聞いていいか。
お前は寝ている俺に触れる度、何を考えていた?」
──それは角砂糖を磨り潰して飲み下したような甘さ、そして舌先が痺れる毒を内包した問い掛けだった。危うい均衡を保って完成されていた世界に、無邪気な悪意の手が加わり、知らぬ光景へと変質していく。
「──なに、を、」
「ああ、知らないフリをしてもいいよ。けど、恐らくまたお前は『繰り返す』。罪悪感が善性の蓋を跳ね除けるまでずっと、お前は繰り返す。
──だから、俺からは『それ』を口にしない。許すという言葉も、許さないという言葉も言わない。
お前がその行為に至る理由に名前が欲しいと言うまでは、ずっとお前を拒まない」
──だから、せいぜい俺を思って苦しんでくれ。
そう言って冬馬は、美しく嗤った。
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