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2 偶然
戦争のない地球で、シオンが見送りについてから489日目、日が完全に落ちる時刻、ついにスペースシャトルの発射は失敗した。エンジンの不完全燃焼が原因とのことだった。死者は整備士含め20以上にのぼり、生き残った兵士は十二人中一人だった。アルという、まだ16の青年だった。
何百回何千回と打ち上げられてきたことを考えれば、失敗は当然のことだった。さすがに当局も今日中での発射はあきらめ、発射は明後日の正午に引き伸ばされることとなった。
大体の処理を済ませると、発射を指揮していた大人は、状況説明と謝罪のために当局本部へ向かい、施設には兵士一人と、シオンだけが残された。
そしてシオンは初めて、兵士アルと一日半を過ごすことになったのだった。シオンは救護班が残していった簡易的な椅子に座り込む兵士を発射所の奥の、シオンの部屋に招き入れた。そうすることが、人間として、とるべき行動の最適解のように思われたからだ。
死を約束された人間と、生を保証された人間が過ごすことを咎める大人は、もういなかった。
3 アル
アルは少しスポーツができるだけの、きわめて平凡な16歳だった。もちろんそのスポーツの才能も、ゲノム編集によるものにすぎないが、ほかの子供よりもいくばくか兵士に向いていたということだろう。
アルは星が好きだった。
暗闇を射抜くオリオンや、うごめく大蛇に憧れ、何度も手を伸ばした。A国ではよく流星群が降る。宇宙に旅立った、アルの友人の父も、星となってA国に降った。
そんなアルに火星での労働義務を伝える令状が届いたのは、人知を超える何かがおそらく働いていたのだろう。
「よかったねえ」「名誉だよ。たんと稼いでおいで」「なあに、すぐ終わるさ」
アルの親族はそう言ってアルを送り出した。
死の恐怖は、当局の情報統制によって見事に市民から奪われていた。宇宙に行けば、地球で働く3倍の収入がある。政府のプロパガンダは23世紀になった今も、巧妙に浸透していたのだった。
4 二人
シオンとアルは無言のまま、空間だけを共有していた。アルは、現人神とまで言われたシオンが存外普通の成りをしていることに驚きながらも、シオンと会話する勇気は出なかった。
「…コーヒー」
シオンがようやく口を開いたのは、アルを部屋に招き入れてから24分51秒後だった。
アルはシオンの紫の瞳を恐る恐る見つめて、この若き科学者は自分にコーヒーを飲むか聞いているのだと解釈した。
「っ、お気遣いいただかなくても…」
アルが悩んでいる間にも、シオンはケトルを手に持って焦げ茶色の液体を注ごうとしていた。
「…あ、どうもありがとうございます」
片手でコーヒーを手渡しながら、シオンの瞳は虚空を見つめていた。
「…きみ、何歳?」
シオンは訝しげに眉をひそめた。
「16、16です」
僕と同じ、とシオンは白い息を吐き出した。マグカップを持つ手は日焼けも肉体労働も知らぬ手だった。
「若い人、久しぶり、だから」
研究にいそしんできた代償に、シオンの会話能力は10歳児なみだった。
「…俺なんかと話さないほうがいいですよ。
政府から、一般兵士と高官の接触は制限されているはずじゃ…」
「偉い人なんて、僕が何か言えば、大丈夫だから。誰とも、普通の、会話なんて―僕に、それは求められていない、から」
シオンは16歳の青年だった。
「たくさん、聞きたいことがあるんだ」
シオンは話すことに慣れていなかった。生まれてからこのかた、研究以外の何かを求められたことはなかった。
「どこから、来たの?」
アルがB市だと答えると、シオンは目を輝かせてB市の話を聞きたがった。そんなに特異な場所ではないと前置きしても、シオンはそれでもいいと言い張った。
「俺の生まれたところは、アネモネっていう花が綺麗に咲く町でした。春になると、一斉に紫色の花が咲いて。いつも母さんと俺と弟で、湖のほとりまで行って、やっすいチーズを乗せたバゲットをかじってたなー。それがどうしようもなく上手くって。来年からは母さんと俺で行くんだーって出発前の弟が張り切ってて…」
いつのまにか、アルはただの16歳の青年に戻っていた。シオンを畏怖する対象とみなさなくなっていったということだろう。シオンが尋常の人間ではなくとも、神ではないことをアルはわかり始めていた。
「家族が、いるんだ。君には」
シオンの脳内に、アルのような家族の記憶はなかった。物心つかないころから、シオンは当局の管理下にあったからだ。たとえ母親でも、シオンとの接触は最小限に控えられていた。むしろ、卵子と精子を提供しただけの人間が、シオンの親と名乗る方がおかしかった。シオンは誕生時でさえ、一度も母親の腕に抱かれたことはない。
「…ああ、だから火星で稼いで、母さんと弟に楽をさせてあげたくて」
16という年に見合わないほど達観した顔のアルに、シオンは少しだけ表情を変化させた。なぜそのような顔をアルがするのかわからない、といった感情を、シオンにしては珍しく体面に出した。シオンがアルの感情を理解することは、この先も永遠とないだろう。
この男も、宇宙を墓場だと知らないのだ―
「そう、なんだ」
シオンは元の無表情に戻って言葉を返した。
「…いつ、戻ってくるの」
答えなどいらなかった。わかりきっていた。見送った男たちが戻ってこないという事実は、シオンが彼らの死を推量するには十分だった。宇宙に旅立って行く者を「兵士」とは知らなくても。
来年くらいには、とアルが笑った。わからない、と遠回しに伝えたいのだ、とシオンは悟った。
「怖くないの、宇宙に行くのに」
シオンの純粋な質問に、アルの口角が4°ほど下がった。まるで丸焦げのパンを一かけらずつ噛みつぶすような顔つきだった。
「…俺は小さいときから宇宙が好きでさ。いつかあの星をこの目で、見てみたいって、そう思ってたんだ。俺はあんたみたいに頭もよくないし、宇宙に行くにはもってこいだろ?…だから、怖くないよ。怖くないんだ」
アルの目は、シオンを捉えてはいなかった。ただフローリング越しの自分を見つめている。
「君は?宇宙が好き?」
化学ほどではないが、シオンは宇宙科学にも興味はあった。何千年も過去の光が暗闇で瞬く不思議さは、シオンの心を確かにとらえていた。
「まあ、きみほどではない、と思うけど」
シオンとアルは、もう「元科学者」と「兵士」という区分を必要としていなかった。
「俺はやっぱ、オリオン座が好きかなー。真っ暗な空にいるときには威厳があってさ、でもさそり座にはかなわないところとか」
「あっ、ぼくも、オリオン座すきかも!」
「俺の町ではこういう言い伝えがあるんだ。オリオン座流星群は、神様が人間の様子をうかがうために、少しだけ空に切り目を入れるっていう」
アルはまるで同級生と語るかのように、B市D町に伝わる逸話を語った。
「…ああ、神様とか伝説とか、シオンはそういう非科学的なこと、信じないか」
黙ってばかりのシオンに、アルは告げた。
「ああ、あ、ごめん。そういうのじゃないんだ。…なんだか、びっくりしちゃって。アルはすごいね」
羨ましい、という気持ちがこもった返事だった。
「いや、シオンのほうが」
「僕はただ、言われるがままにやってただけだから。楽しかったけど、やりたいって思ったことはきっとないんだ」
シオンはアルの言葉にやや食い気味に返した。
「…でも、君はその発明でA国を豊かにしただろう?俺にはできないよ」
「A国が豊かに…?」
シオンの不思議そうな顔に、アルも首を傾けた。
「…僕は作っていた、の?人の役に立つものを?」
「そうじゃないのか?国の広報誌では、シオンが作った装置のおかげで、A国はどこからも攻められない、平和な国になったって。宇宙のA国領域でも」
「…僕はそんなもの、作ってない…」
怯えたような顔だった。シオンは自分がそれほどまでに国に影響を及ぼしているのだということを知らなかった。
「F型レーザー水雷は?プラズマサイクロンは?全天周囲の光学色彩は?」
アルが次々と候補を挙げていく中で、シオンの記憶にないものは一つとしてなかった。
「…確かに、それは僕が作ったもの、だけど…」
シオンが作り出したもののほとんどは、威嚇及び迎撃を主とするものではなかった。むしろ、実戦のさなかで必要となってくるもの―
作った張本人のシオンのみが、それらの装置の「意味」を知っていたのであった。逆をいえば、シオン以外の国民は、当局の広報を疑う余地もなかったということになる。
「あのさ…」
シオンは、ある一つの可能性を考えていた。
「この国は、本当に平和なのかな」
平和―戦争や争いがなく穏やかな状態。流暢に話すようになったシオンの言葉には、重みが伴っていた。
「…平和だ。誰だってそう答えるさ。100年前のように、この国に爆弾は落ちてこない。夜は安心して眠りにつける。これのどこが平和じゃないって言えるんだ?」
「じゃあなんで!僕はずっと研究をさせられていたんだ?僕が作ったものは、防衛を目的にしてるものじゃない。どちらかというと、積極的な攻撃に向いているもの、だから」
シオンは息が切れ切れになるほど一気にまくしたてた。シオンにとっても、こんなに長く言葉を発したことは初めての経験だった。
それに、と息を整えてシオンは続けた。
「宇宙から、帰ってきた人を見たことがないんだ」
アルは、発射所と帰ってくる場所が別なこともあるだろう、と吐き捨てた。その顔は歪んでいた。
「そうかもしれない。でもさ、違う可能性だって」
「君は何を言いたい!宇宙で、この国が戦争をしているっていうのか?…それでも、実際、この国には爆弾は落ちてこないじゃないか!宇宙に行かない限りは、平和を享受できるんだ!この地球で人生が保証された君に、何の関係がある!」
アルも全くの馬鹿ではなかった。明日、自分が向かう宇宙は憧れていた場所ではないのかもしれない。宇宙から、帰ってこれないのかもしれない。そのくらいの想像はアルにもできた。
「…ごめん」
アルの気迫に思わず謝罪の言葉が漏れ出した。
「…こちらこそ」
アルはきまりが悪そうに小声で答えた。
「…でもさ、そんなことあり得ないよな。宇宙で戦争をしてるって。普通、僕らのような子供よりも先に、大人が気づくさ」
シオンは本当にそう思っていた。シオンの言葉なら、とアルもひとまず納得した。
「そもそも、宇宙で戦争できるほど科学文明はまだ発達してないんだ」
「…そうなのか」
意図せず、シオンは嘘を吐いた。わからないのに「ない」と断定した。
「アルが無事に帰ってきてくれれば、A国はやっぱり平和っていう証拠になる、から」
下ばかりを見つめていたシオンがアルのほうを見上げると、机に突っ伏して寝息を立てていた。
時計の長針は、午前1時を指していた。シオンもアルの姿勢を真似して、久しぶりに眠りについた。
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