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「金成、お前、再テストで七十点以上取れなかったら成績落とすからな」
「は? ふざけんな。初回で六点の俺が、どうやったら七十点も取れんだよ!」
「それは優秀な先生にお聞きしろ」
「誰がお前みたいなエセ教師に!」
「俺じゃねぇよ、A組の藤島にお前の面倒を頼んどいたから」
「藤島? 誰だよそれ」
「ほれ、今からA組に行け」
ふざけんな。本来教師がすべき指導を生徒に押し付けてんじゃねえ。
数学教師の山崎にしっしと手のひらでうながされた泰士は、そのあたりにある壁でも椅子でもなんでもいいから殴りつけたいほどイライラとした。しかし職員室内でそんな横暴な真似ができるはずもなく、横柄な態度を理由にこれ以上成績を悪くされてもかなわないので、職員室を出てしぶしぶ二年A組の教室へと向かう。
泰士の数学の中間テストの結果は、六点だった。勉強していなかったのは認めるが、そもそも以前から、泰士は数学の授業についていけなくなっていた。
所属しているダンス部の練習があるから勉強時間がない、なんて女々しい言い訳はしたくない。しかし、それほど苦手意識のない文系科目に比べて、これまでついていくのがやっとだった数学は、二年生になってから急に難解になったように感じる。そう思わせるのは山崎教師のほどよくやる気のない授業のせいではないかと、そこは女々しくも人のせいにしたくなる。
だが、原因を自分以外に求めたところで六点という不甲斐ない点数を取ったのは事実。そして、どうにかそれを挽回しなければ数学の成績はがくっと落とされ、へたをすれば進級が危うくなってしまう。そんなダサい事態だけは絶対に避けたい。
(あ~くそっ。ダンス部にA組の奴はいねぇし、入りづれぇ)
ここは私立の中高一貫校で、高等部のクラス分けは成績順が基本だ。A組というのは、文系理系問わずほぼ全科目の成績がずば抜けて良い、ゆくゆくは難関国公立大学に進学するような生徒たちが集められている。そしてB組、C組、とアルファベットが進むにつれて、生徒たちの成績は下がっていく。
泰士は二年D組なので、どう頑張っても成績は下から数えた方が早い。そして泰士が所属しているダンス部の生徒も、一番勉強のできる者がB組に一人いるくらいで、あとはC組とD組がほとんどだ。A組所属の優等生などいない。ダンス部以外で仲の良い友人たちも、まずA組所属はいない。
それなのにA組の――なんと言ったか。藤島? 誰だそれ。男か女かもわからないが、とにかくその藤島を頼りにしなければならないらしい。A組の生徒なので勉強はできるのだろうが、それでも自分と同じ生徒のはずだ。本職の数学教師である山崎の授業が理解できていないのに、一般の生徒から教わることで今までわからなかったものがわかるようになるのかよ、と泰士は疑う気持ちしかない。けれど、悲惨な数学の現状をなんとかしてくれるというのなら、してもらおうじゃないか。泰士はそんなおざなりな気持ちでA組のドアを開けた。
「おい、藤島って奴はいるか」
放課後の、人がほとんどいなくなった教室。乱暴にドアを開ければ、数人の生徒が驚いたようにこちらを向く。泰士は彼らには構わず、藤島とやらを探す。
「あの……」
(くそっ、山崎も使えねぇな。男か女か、それぐらい教えておけっての)
「あ、の……!」
「あ? ああ、わりぃ、気付かなかった」
背の高い泰士は、視界のずいぶん下の方でか細い声を出す女子に気が付いた。
ぷるぷると子羊のように肩が震えているその女子生徒は、泰士に比べてかなり背が低い。制服のブラウスの第一ボタンをきっちりと留めて眼鏡におさげといういで立ちは、申し訳ないがいったいどの時代の女子高生のつもりなんだよと問いただしたい気分になった。
「わ、私が藤島、です。か、金成くんだよね? 数学の山崎先生から……」
「ああ、そうなんだよ。悪いけど数学の再テスト、なんとかしてくれねぇ?」
数学の再テストの面倒を見てくれるというA組の藤島。まさかこんな時代遅れの眼鏡女子だとは思ってもいなかった泰士だったが、彼女の容姿はさておき、早々に情けなくも願い出た。成績が下がったら、親からダンス部の活動を禁止されることが懸念される。それは絶対に嫌だ。とにかく、六点しか取れなかったテストの再テストで七十点以上を取らなければならない。
「う、うん……教えられることは教えてみます」
「頼むな」
「はい……」
やけに力のない返事だ。ほんとに彼女を頼って大丈夫なのだろうか。
正直言って、泰士はかなり不安に思った。
「俺さ、部活がないのは水曜日だけなんだよ」
「じゃあ、水曜日の放課後は、図書館で閉館まで勉強しようか。あの、たぶん……基礎からしっかりやらないと、七十点は厳しいと思うから。でも、水曜日だけじゃ時間が足りないと思うの」
「そうだよな。部活が終わるのはだいたい六時半とかだ。そのあとでよければ、ファミレスかマックにでも寄って一時間くらいなら……あー、疲れて寝るかもしんねぇけど。っていうか、それだとお前の都合が悪いよな。お前、部活は?」
「私は帰宅部だから、金成くんの部活が終わるのを待つのは平気だよ。本を読んだり、予習したりしてるから。でも、数学以外の授業の小テストとか宿題も毎日あるし、平日の再テスト対策の勉強は、水曜日だけでいいんじゃないかな。その代わり、土日にまとめて勉強した方が効率がいいと思うんだけど……ど、どうかな」
恐る恐る見上げて尋ねてくる藤島は、ハムスターのような小動物を思わせた。アクティブで、頭よりも身体を動かしていたいタイプが多いダンス部の友人たちと比べると、真逆の生態だ。
「土日か……まあ、学校終わりで寝ちまうよりはマシか」
「うん、図書館なら学校よりも涼しいよ」
「マジか。じゃあ頼むわ。あ、連絡用に友達登録しねぇ? アプリ使ってる?」
「あ、うん、ちょっと待ってね」
藤島はとてとてと小走りで席に戻り、机の横にかけてあった鞄からスマホを取り出す。そして二人は連絡用アプリで友達登録を行った。
最初の土曜日、二人は午前中に図書館前で待ち合わせをすると、冷房のきいている自習スペースに入って並んで座った。
藤島は融通がきくうえに至極親切で丁寧だった。泰士が、テスト範囲だった単元のもっと前の単元すら危ういとなると、そこまで戻って本当に基礎から説明してくれた。わざわざ高校一年生時の数学の教科書と問題集を持ってきてくれており、理解するのに必要な問題をピックアップして習得の手助けをしてくれた。おかげで泰士は、以前つまずいたところをすっかり解消できた。
十二時の鐘が鳴ったところで、一度二人は勉強道具を片付けて、図書館から少し離れた場所にあるファストフード店に入った。そして、ハンバーガーひとつとオレンジジュースだけの藤島の食事量に、泰士は目を真ん丸にする。
「それで足りんの?」
「え、うん……あ、でも、あとでおやつは食べちゃうかも」
泰士の友人であるダンス部の女子たちは、曲がりなりにもダンスをしていて日々の運動量があるからなのか、なかなかに食べる方だ。しかし藤島は、ハムスターかよ、と思わずにはいられない量を、ちみちみと食べる。自分の周りにはあまりいないタイプなので、泰士はなだか珍生物を見ているような気持ちになった。
それから二人は図書館に戻り、計算練習、公式の確認、問題演習を繰り返した。さすがに午後三時頃には集中力が切れたので、二人でおやつタイムにして、藤島が持ってきていた小さなチョコレート粒の菓子をパクパクと頬張った。
藤島は基本的に声が小さい。笑い方も、なんだか遠慮しているように慎ましい。でも、眼鏡の下に浮かべるその笑みは、なんとなく強い印象に残った。
最後に、自習として解くとよい問題をいくつか教わって、泰士は藤島と別れた。
次の勉強時間――水曜日の放課後、学校の図書館に二人は集合した。面倒見の良い藤島は、細やかなうえに気遣いのスピードが尋常ではなかった。泰士がどこをどんな風に理解できなくて苦戦してるのか、すぐ見抜くのだ。なんでわかるんだよ、と泰士は思わず尋ねていた。
「私もそこでつまずいたから……かな」
藤島は少し恥ずかしそうにそう言って笑った。
D組の泰士からすると、成績優良者が集まるA組に在籍している藤島が勉強でつまずいていたなんて、嘘だろと思ってしまう。
「A組のお前でも、わかんなかった時があったのかよ」
「そうだよ。私も今の金成くんみたいに、何度も基礎を確認して公式を憶えて必死に練習したんだよ。えっと……金成くんはダンス部だよね? 私はダンスのことはわからないけど、ダンスもそうじゃない? 不得意だった頃があったでしょ? でも練習を頑張ったから、今はできるでしょ? ね、それと同じ」
同じかねぇ、と泰士は思いつつも、藤島は天才型なわけではなく、地道な努力を重ねたからこそ勉強ができるのだ、という当たり前のことが理解できた。
その次の土曜日も、二人は地域の図書館にこもった。初対面の時はびくびくしていた藤島だったが、おやつ休憩の合間の会話はだいぶリラックスして話してくれるようになっていた。
「えっ、金成くんってお兄さんがいるの?」
「ああ、いま大学生だな」
「ちょっと意外。お兄ちゃん、って弟とかから呼ばれてそうなのに」
「むしろ俺が弟なんだよな。そういうお前こそ、弟がいるんじゃねぇの」
「よくわかるね。そうなの、弟がいるよ。いま小学校四年生だよ」
「結構年が離れてんな」
「うん、最近生意気になってきたんだけど、かわいいよ」
弟の話をする藤島は「お姉ちゃん」の顔をしていた。なるほど、この面倒見の良さは長女だからなのだろう。
その後、過去単元の復習と基礎固めが終わったので、いよいよ再テスト範囲の練習になった。再テストは、前回のテストとまったく同じ問題も出されるが、異なる数字の問題も出されるとのことだった。だが、基本的には最も重要な公式の暗記と、少しばかりの応用のテクニックをおさえれば、七十点はかたいはずだ。
「大問が全部で五つあるけど、そのうち大問四はひとまず後回しで、最悪諦めた方がいいと思うの」
「は? なんで?」
「かなり難しいから……そこの配点は捨てて、ほかのところで満点を取れるようにした方がいいと思うんだ」
「それって、逆にハードル高くね?」
「大丈夫、これまで基礎を確認したし、ほかの問題は基本の応用だけだから。大問四は、これ、先生が意地悪で作った問題だと思う。解けなくもないけど、時間内に解き終わるには、まだ授業でやってない公式を使わなきゃいけないから」
「なんだそれ。つーか、なんで藤島がンなこと知ってんだ?」
「私、ここがわからなくて……でも山崎先生に聞くのが悔しくて、休み時間中もずっと考えてたら、クラスの時田くんが教えてくれたの。時田くんね、すごいんだよ。この問題もさらっと解いちゃったんだって」
「ふーん」
その時泰士は、胸の中にざわりとした風が渦巻いたのを感じた。自慢げに――いや、尊敬して憧れているかのようにクラスの男の名前を出す藤島が、なぜだかやけにムカついた。勉強のできない自分が勉強のできる「A組の」時田に嫉妬しているのかとも思ったが、そうではない。藤島が、自分の知らない男の名前を口にしていることが、なんだかもやもやとしたのだ。
「大問四を全部捨ててもほかのところを満点にすれば七十点は超えるから、きっと大丈夫。あと少し頑張ろうね、金成くん」
「ああ……」
胸中の苛立ちもほどほどに、泰士は数式と睨めっこを始める。考え込んで思わず眉間に皺を寄せた泰士を見て、藤島は眼鏡の向こうで小さく笑った。
◆◇◆◇◆
「金成~、あんた、土曜日にあのダサ子と一緒にいたんだって?」
「なに、付き合ってんの?」
「誰だよ、ダサ子って」
昼ご飯を胃袋に収めて紙パックのジュースを飲みながら窓の外をぼんやりと見ていた泰士に、ダンス部の女子生徒が二人、声をかけた。学年で一、二を争う短さをほこるスカートがふと目に入り、「藤島と同じスカートとは思えねぇな」と、泰士は言葉にすることなく考える。
「ほら、眼鏡でおさげの」
「ああ、藤島か。俺、数学のテストがやばくてさ。数学の山崎が藤島に教われっつーから、教えてもらってるんだよ」
付き合ってるわけじゃねーよ、と泰士は淡々と付け加える。
生徒の指導を同じ生徒に押し付ける山崎のやり方はどうかと思うが、藤島の指導は自分にはとても助かるものだったので、泰士は素直にそのありがたみを語った。
「あいつすげぇよ。俺がどこでつまずいてんのか、すぐ見抜くんだ。それに説明もわかりやすい。自分もそうだったから、って。あいつ自身、すんげー努力してんだわ」
「ふーん」
「つまりガリ勉じゃん? やっぱりダサ子だね」
自分から話題を振ってきたくせに、女子生徒二人はつまらなさそうな、そして藤島を馬鹿にするような反応だった。
「それよりお前らさ、次の部活で何やるか聞いた?」
泰士はそれ以上藤島の話をする気にならず、さらりと話題を変えた。女子生徒二人は「知らない」と言いつつも、いい加減基礎練習は減らして大技をやりたいと、いつものダンスの話題へシフトしてハイテンションに語った。
そして、数学の中間試験再テストの日がやって来た。
再テストを受ける生徒は泰士以外に三名おり、放課後の教室の中には数学教師の山崎と、泰士たち四名の生徒が集まった。
テストの制限時間は最初と同じ四十分間だ。やる気のなさそうな山崎が試験監督をする中、泰士は藤島に教えられたとおりにテストに臨んだ。
最初に、今回使うべき公式を問題用紙の隅に書き出しておく。途中で焦って公式を忘れても大丈夫なようにと、藤島が教えてくれたコツだ。
それから、問題は簡単なものから解いていく。今回のテストの場合だと、大問一、二、五、三の順だ。いやなテストの作り方だと思う。一題目から真面目に解こうとすると大問三、そしてその次の大問四で時間をくって、最後の大問五の問題に目が通せなくなる。泰士は簡単な大問一、二の正答率も低かったが、この大問三、四を解くのに全部の時間を使ってしまい、大問五は問題文すら読めず、六点に終わったのだ。
(クソ山崎……見てろよ!)
負けず嫌いの泰士は、数学教師の山崎に負けたくない思いでとにかくシャーペンを動かす。最初に書き出しておいた公式を途中に何度か確認しながら、答えも途中式も間違いないものを書いていく。時間がかかるが、途中の計算式をへたに端折らないことが、正答率を確実に高めてくれる。これもまた、藤島からのアドバイスだった。
残り時間が十分を切った頃に、泰士は大問四以外の問題すべてを解き終わった。藤島に言われたとおり、四題目には目を通さずに残り時間を見直しに当てる。
「……んじゃ……よ!」
その時、教室の外の方から甲高い声が聞こえた。女子の声で、ふざけんじゃないわよ、と言っていたように聞こえる。
(なんだ?)
山崎がぼうっと俯いて生徒たちを見ていないのを確認してから、泰士は開いている窓の外にそっと視線を向ける。すると、校舎を背にした一人の女子生徒に、数人の女子生徒が圧力をかけるように対峙しているのが見えた。校舎を背にしているそのおさげで眼鏡の女子生徒は――。
(――藤島?)
驚いて席から立ち上がりそうになるのを、泰士はすんでのところで抑えた。
なぜ藤島が女子に囲まれているのだろう。しかも、聞こえた声からすると良い雰囲気の集まりではない。おまけに、遠目で確証はないが、藤島を取り囲んでいる女子たちのうち二人はダンス部の部員ではないだろうか。どうしたというのだろう。
(わけがわからねぇ)
藤島側の事情はまったくわからないが、泰士は今すぐにでも藤島のところに駆けつけたいと思った。しかし机の上にある数学の問題用紙が、「敵前逃亡ですか?」と挑発的に語りかけてきている気がする。いまここでテストを放り出したら、藤島が今までしてくれた指導が全部台無しになってしまう。
(あーっ! くそっ!)
泰士は藤島が気になってすっかり冷静さを失った。こんな状態で見直しをしても、正しく導けたはずの答えを誤ったものに書き換えてしまうかもしれない。
(時間……)
左手首の腕時計を見る。テスト終了まで残り六分。白紙のままの、大問四。
――わ、私が藤島、です。
――あ、でも、あとでおやつは食べちゃうかも。
――私もそこでつまずいたから……かな。
――あと少し頑張ろうね、金成くん。
藤島と一緒に過ごしてきた時間が、走馬灯のように思い起こされる。
(ちくしょう、今の俺にできることってこれしかねぇよ!)
残り時間、泰士は無我夢中で数式を書きまくった。
「ん……ああ、時間だな。ここですぐ採点すっから、全員このまま待機な」
終了時間が来たので、山崎はのんびりと声をかけて、四名の机上から回答用紙を回収した。しかし、待機と言われた直後に泰士は立ち上がった。
「おい、金成、待ってろって」
「便所だよ!」
泰士は雑な言い訳を放ち、男子便所へではなく階段を駆け下りて廊下を突っ切っていく。ダッシュで目指す場所は、藤島が女子に囲まれていた場所だ。
(ったく、なんで女子ってのは集団になってああいうことをするんだ!)
あれは十中八九、典型的ないびり、いじめの現場だろう。
「藤島!」
「えっ……か、なり……くん?」
一心不乱に走って目的の位置に向かうと、しゃがみこんで俯いていた藤島が一人、今にも消えそうなはかなさでそこにいた。いつもおさげにしている髪は不自然に乱れていて、眼鏡をかけていない。彼女の足元には、レンズにひびの入った黒縁の眼鏡がまるでゴミのように落ちていた。
「あれ……あの、再テストは……」
「終わった。いま山崎が採点してる」
「そっか」
藤島はくしゅくしゅのほほ笑みを浮かべたが、その目元は赤くなっており、泣いていたことが一目瞭然だった。悔しいが、先ほど彼女を取り囲んでいた女子たちは、明らかに手出しをしたようだ。
「で、できた……? 私の、教え方……だめだったかな」
「そんなことねぇ!」
「っ……」
泰士の大声に、藤島はびくっと肩を震わせて驚いた。
泰士は大声を上げてしまったことを気まずく思いながらも、なぜ女子たちに囲まれていたのか、その眼鏡はどうしたのか、泣くほど何を言われたのか、とにかく藤島に訊きたいことが山ほどあった。
「ご、合格点……取れてるといいね」
藤島は涙の跡をごまかすように努めて明るく振る舞う。けれど、その声は震えているように聞こえた。
(いま何が……何がこいつにこんな痩せ我慢をさせるんだ?)
女子同士のいざこざを男子に知られたくない、という彼女なりの矜持だろうか。
(ダンス部の奴がいた……)
彼女を取り囲んでいた中にいた、ダンス部員と思われる女子生徒。
――あんた、土曜日にあのダサ子と一緒にいたんだって?
――なに、付き合ってんの?
泰士の脳裏によみがえる、何気ない昼休みの会話。
(俺……俺のせいか?)
それは自惚れではないだろうか。しかし、そう考えた方が辻褄が合う気がする。
A組で帰宅部の藤島とダンス部の女子生徒たちの間に、友好的な接点があるはずがない。だが逆に、ここ最近泰士とよく一緒にいたことで、藤島が無用の嫉妬を買ってしまった可能性はある。藤島はそのことを気付かせまいとして、何も言わないでいるのだ。
「金成くん、あの……山崎先生のところに戻らなくていいの?」
足元の眼鏡をそそくさと拾い上げて、藤島は泰士に問いかけた。ああ、眼鏡をかけていない藤島は眼鏡をかけている時よりもなんだか大人びて見えるな、なんて泰士は思わず考えてしまう。
「ダンス部の奴がいただろ……俺のせいか」
泰士の口は、するりと核心を突いた質問を投げかけていた。藤島は瞬きを繰り返して、それから気まずそうに首を横に振る。
「ち、違う……大丈夫、金成くんは関係ないから」
関係ない――。藤島は気を遣ってそう言ってくれたのだろうが、その言い方に泰士はひどく突き放された気がした。そして同時に自覚した。そんな風に蚊帳の外に置かれたくないと感じるほど、自分は彼女との距離を近くに感じていたのだ、と。
「でもお前、泣いてたじゃねぇか。女子に囲まれて、なんかされたんだろうが!」
中間テストが終わってから今日の再テストの日まで、毎週水曜日と土日は、時間が合うかぎり藤島から数学を教わっていた。二人で図書館やファストフード店にいたところ、放課後の学校の図書館で一緒にいたところなどを見かけた誰かに、「付き合っている」と思われても仕方ないかもしれない。直接尋ねてきたダンス部の女子生徒たちには否定したが、おそらくそれは信じてもらえなかった。そして、自分に気がある誰かが、本人主導か友人主導かそこはわからないが、とにかく藤島に嫉妬して意地悪をしかけたのだろう。それのどこが、関係ないのだろうか。
(関係大有りじゃねぇか!)
それなのに、泰士に心配をかけまい、迷惑をかけまいと言葉を濁す藤島のいじらしさに、泰士はカッとなった。責めるべきは彼女ではないだろうに、そんな気遣いをする藤島に怒鳴りたい気持ちになってしまった。
「平気……大丈夫、だから」
藤島は自分を勇気付けるように、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。それから、くしゃくしゃに乱れてしまっているおさげを一度すべてほどき、手櫛で髪の毛を整えてから再び三つ編みを結う。その藤島の手元に視線を吸い寄せられた泰士は、自分の拳を強く握った。
起きてしまったことは、もうどうしようもない。藤島にも自分にも、過去のことを変えることはできない。それに、虚勢を張っているだけなのだろうが、どうにか強がって踏ん張ろうとする藤島のプライドも、無下にはしたくない。だからきっと、これ以上何かを言うべきではないのだろう。
「藤島、まだ帰らないで待っててくれねぇ? 今日は再テストがあるからつって、部活は最初から休んでるんだ。結果が……その、もし悪かったら、まだ教えてほしいんだ」
「う、うん……いいよ。じゃあ、ひとまず下駄箱で待ってるね」
「よし」
藤島がまだぎこちなくも笑顔を浮かべて頷いたので、泰士は気を取り直した。そして急いで再テストを行っていた教室に戻ると、待たされて不機嫌な山崎が「金成!」と開口一番に大声を出した。
「長いクソだったな。ほれ、結果はそれだ。藤島によーく礼を言っておけよ」
泰士は自分が座っていた机に近寄り、その上に置かれた答案用紙に視線を落とす。右上の点数欄を確認すると、山崎に挨拶もせずに鞄を雑に掴み、泰士は下駄箱へと階段を駆け下りた。
「藤島!」
泰士が声をかけると、藤島はびくりと小さく飛び上がった。体躯の小さな彼女にとって、泰士の大声はやたらと驚かされるものなのだろう。
「これ!」
泰士は若干くしゃくしゃになった答案用を、藤島の目の間に差し出す。藤島は恐る恐るそれを受け取って、ほぅ、と一息ついた。
「八十三点……合格……よかったあ。あれ、え、でも、四題目、解いたの?」
合格点に設定されていた七十点を見事クリアしていたことに安堵しつつも、解答用紙に空白がないことに気付き、藤島は疑問符を浮かべながら泰士を見上げた。
「テスト中にお前が女子に囲まれてんのが見えて、なんか頭に血が上っちまって……でも、俺にできることって問題を解くことしかねぇ! って思って」
「ふふっ……何それ」
藤島はへにゃんとした力のない顔で笑う。ああ、よかった。強がりでもなんでもない、いつもの藤島だ。
「全部解けたわけじゃねぇけど、部分点はもらえたみたいだ」
「うん。ほかの大問が満点だから、それで八十三点なんだね。よかった」
「藤島のおかげだ。マジでありがとな」
「いえいえ、どういたしまして。これで私は御役御免だね」
「それでさ、俺、藤島にお願いがあるんだけど」
「お願い? なあに?」
解答用紙を泰士に返しつつ、藤島はきょとんとした表情で訊き返す。
「俺と付き合ってくれねぇ?」
泰士がそう言うと、藤島は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
数学の再テストで無事に合格点を取れた泰士が、新たなテストの合格点を取れたかどうか――気にはなるところですが、それはまた別のお話なのでひとまず今日はここまで。
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