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2.アレックスおばさん
アレックスおばさんの一日は規則正しい。
7時に起床し、軽くストレッチをする。午前中は事務仕事をしたり、時には銀行へ行ったり、弁護士事務所に行く。亡き夫が残した資産を管理するのはなかなか大変である。午後はボディガード兼トレーナーと一緒にセントラルパークでウォーキングをすることもある。日曜日には教会に通っている。
家政婦のエマがこっそりアイラに教えてくれた。「奥様に息子さんの話は禁句ですよ。」
NYに来るまではアレックスおばさんの情報は、元バレエ団のプリマだったということ、結婚しているのかどうか、子供もいるのかどうかも知らなかった。
リビングには家族の写真は一枚もなかったものの、上流階級が暮らすコンドミニアムに住んでいて、ベランダからはエンパイアステートビルが見えたし、近くにはセントラルパークの緑が見える。とんでもない大金持ちだということはわかった。どの部屋も洗練されていて美しい。豪華なカーテンにふかふかの絨毯、ソファは高級な生地でできていて、あちらこちらに絵画が飾ってあった。
部屋は8部屋もあり、その1室がアイラにあてがわれた。住み込みのメイド用の部屋ではないことはわかった。長らく使っていなかったという部屋は、アンティーク調の勉強机があった。カーテンやカーペットの色調から見て男性用の部屋だということがわかる。エマがこっそり教えてくれた亡くなった息子、アイラが会ったことのない従兄の部屋だったのだろうか。
アイラの荷物は先に届いていた。クローゼットに安物の服を片付け、ベットカバーは母が作ってくれたキルトのカバーをかける。料理の本が数冊、あとはロマンス小説。トイレとシャワー室がついていて、ここは自分で掃除するのだとわかった。
部屋の片づけをしていると、机の近くに鍵が落ちているのに気が付いた。最初は机の鍵かとおもって、鍵穴にあててみたが、穴の方が大きかった。アイラはそれを机の上に置いて、それから長いこと忘れることになる。
おばさんは驚くほど少食である。朝はクラッカーにチーズやジャムをつけて食べるだけ。昼は野菜だらけのサンドイッチ、夜は豆料理である。たまに味のついていないボイルされた鶏肉が出てくる。そして飲み物はつねに瓶に入っている水である。
コーヒーもないし、炭酸飲料なんてものもない。
「食べたい物は自分の部屋に置いておくことですね。ポップコーンもポテトチップスも」とエマはこっそり教えてくれた。
引っ越しにともなう役所関係の手続きを済ませた後、地下鉄やバスの乗り方、銀行の場所などを家政婦のエマがすべて教えてくれた。忙しいのにありがとうと言うと、
「その間、家事はしなくっていいって話だから。」とエマは明るく言ってくれた。
血のつながったおばと姪であるが、どう付き合っていったらいいかわからなかった。
ある日のことである、テーブルに乗っているぱさぱさした食事をしながら、アレックスおばさんは切り出した。
「あんたの義理の父親が言っていたけど、大学に行きたいなら、どんどん見学に行くことね。」
アイラは高校の成績が良くなかったことを恐る恐る言った。もっとも高額な授業料を払わなければならない私立大学は成績が良くても無理だろう。誰が払ってくれるというのだろうか。
「じゃあ、あんたの成績で入れるレベルの大学に入ることね。ここにきて1カ月経つけど、そろそろ次のステップへ進んでもいいんじゃないの?」
と言った。その時のおばさんの軽蔑したような顔にアイラはいたたまれない気持ちになった。
最初の衝突はアイラの進学問題ではなく、日々の貧しい食事がきっかけだった。
アレックスおばさんはキッチンが汚れているのが我慢できない性分だった。料理らしい料理をするとどうしても台所が汚れる。油が散ったり、コゲがつくのが嫌なのだった。
家政婦のエマは料理が簡単で済むのでいやではなかったのたが。
最初の取り決めで、アレックスおばさんは生活費はいらないと言っていた。そのかわり必要なものは自分で買わなければならない。
アイラは住まいから一番近いお店で食材を買ってきて、ラザニアやピザを作ったのだった。太るのを気にしているなら、少しだけ食べて欲しいと言うつもりだった。
アイラは料理をするのが好きだった。鼻歌を歌いながら、久々に台所に立って楽しかった。
エマはおよしなさいとは言わなかったが、ことの成り行きを心配していた。
そしてそれを食事に出したところ、アレックスおばさんは激怒したのだった。
こんな体の悪いものを食べさせるつもり?野菜をたっぷり食べた後に少しだけ食べれば太らないんじゃないかしら、とアイラはテレビで得たダイエット法を言ってみた。
おばさんはとにかく目の前のこと匂いのきつくてカロリーの高いものをどこかにやっておしまい!と言ったのだった。
アイラはあまりにもアレックスおばさんが怒るので、怖くなった。やはり姉妹である。かつて母親が口汚くののしった顔も声も似ている。
こんなことで怒るなんて、アイラはショックを受けた。バレリーナは太るのを気にして、少ししか食事を口にしないということをアイラだって知っていた。
でもおばさんはもうバレリーナじゃない。事前に断りを言わなかった自分が悪かったのだろうか?アイラの双方から大粒の涙が流れた。
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