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3.刺激
アレックスは定期的に通っているセラピストの許を訪れた。
シュルツという名のセラピストは評判のいい男だった。アレックスと同い年で、中背で物腰が柔らかい。きれいに蓄えた顎鬚がさらに柔和な印象を与える。
ぷりぷりしてやってきたアレックスを笑顔で迎える。多分こうなることだと思っていた様子だった。
「私は向上心のない人間は嫌いですよ。」
と切り出した。
「アイラはこの街に来て以来、勉強をするでなく、家でぶらぶらしているわ。おまけに私の許可なくピザやラザニアを作ったんですよ。私が必死でカロリーコントロールしているというのに。」
妹の二番目だったか、三番目だったかはっきりしないが、アイラにとっての義理の父親から、アイラを引き取るように電話を受けて承諾したのは間違いだった。
まったく口の上手い男だった。まんまと乗せられてしまった。
「ボブ、あなただって、是非そうしたらいいとすすめたわよね。どうしてくれるの?アイラはすっかり機嫌をそこねて部屋に閉じこもってしまったわ。外に出かけるでなし、私が外出するまで、部屋でずっと息をひそめているのよ。」
アレックスは怒りにまかせて言いたいことを言う。まったく、こんなに腹を立てたのは久しぶりだった。
シュルツはにこにこしながら聞いている。実際、アレックスとは長い付き合いであるが、ここ数年愚痴が増えてきていて、同じことをくどくど喋るだけになってきていた。亡き夫がいかにひどい男であるか、その夫のせいで大事な息子を失ってしまったということを、そしてその息子を守ってやれなかったことを悔やんでいる。そしてその苦しみは年を経て薄らいでいくどころか、どんどん肥大していったのだ。
しかしシュルツは長いカウンセリングの中で気づいていた。縁を切ってしまった家族であるが、本当は心の隅で引っかかっているところがあるということを。
「私は妹から憎まれていたのよ。両親、特に母親は私を溺愛して、私がバレエが上達するように必死で働いて支えてくれたわ。休日には何時間も運転してアンナ先生の教室に送ってくれたわ。その間妹は家で留守番をしていたわ。小さい頃はそうでもなかったけれども、思春期になると私と一言も口を聞かなくなっていた。」
アンナ先生というのはソ連(ロシア)から亡命してきたバレリーナ教師で、マリインスキー劇場で後輩の指導してきたえらい先生であった。アレックスの才能をいち早く見抜き、近くに引っ越すようにすすめてくれたのだった。
「父は構わないって言ってくれたわ。トラックの運転手だったし、運送会社ならどこにでもあるって。母も郵便会社に勤めていたから、同じような仕事を見つけたわ。ただ、妹は仲の良かった友達と別れるのはいやだって大泣きしていたわ。どうして私が姉さんのために犠牲にならないといけないのって。」
アンナ先生にはバレエ愛好家のスポンサーがついていて、才能のある少年少女たちを無料同然で教えることができるように奨学金を出してくれたのだった。おまけにずばぬけて才能のあったアレックスはそのスポンサーから特に気に入られ、上流階級しか通えない私立の高校の授業料さえ出してくれたのだった。当時は公立の高校が荒れていたということもあり、落ち着いた環境の中で学生生活を送り、バレエに集中できるように取り計らってくれたのだった。
そして18歳の時にニューヨークにあるバレエ団に入ることができたのだった。そこからのアンナはすぐソリストになり、プリマになりといった輝かしい経歴を重ねることになった。
実家に里帰りする度に、両親は『お前は私たちの誇りだ。』と言って喜んでくれるというのに、妹は部屋の中に引きこもって、姉とは絶対口を聞こうとはしない。勉強はちゃんとしているということだったが、マリファナや煙草を吸い、早くから彼氏を作り、両親をやきもきさせていた。
娘を一人前にできたという満足感で満たされていた母親は、「時が解決してくれるわよ。」と楽観的なことを言った。ニューヨークの舞台で主役を演じた時は両親は見に来てくれたが、妹は来なかった。
クリスマスカードもいつしかお互い出さなくなっていた。
アレックスは母親とレッスンにでかける時、玄関の向こうから泣き叫ぶ妹の声を何度も聞いていた。父親とベビーシッターがなだめても、しばらくは鳴き続けていたという。年が離れた姉妹だったせいか、まだまだ母親のぬくもりが必要だった時に、それを無理やりもぎとるようなことをしてしまっている。
「でも妹は根性はあった。大学を卒業して、ソーシャルワーカーになって自活していたわ。結婚は上手くはいかなかったけれど、離婚なんてよくあることよ。両親の面倒もよく見てくれたし。だから私は両親の遺産はいっさい受け取らなかったわ。妹にすべて譲ったわ。それなのにアイラときたら!何しにニューヨークに来たというの?自分を磨くためじゃないの?」
アレックスも不器用ながら歩み寄ろうとしていた。
食事の件は「悪かった、言い過ぎたわ。」と謝ることができなかったのだが、アレックスなりにきつい物言いをして反省はしていた。しかし、食事の件はゆずれなかった。そのかわりとして、
たまには外で運動した方がいいと思い、セントラルパークでの散歩に誘った。新緑の美しい季節だった。それなのにアイラは途中で気分が悪いと言って、ベンチに座り込んでしまった。どうしたのかと聞くと何も言わずあやまるばかりだった。
そして次に勉強するなら大学に見学しに行きなさいとすすめると、これもまた気分が悪いと早々に帰ってきたのだった。
アレックスにとってはこれが『歩み寄る』行動なのだった。
それまで黙って聞いていたショルツは笑いをこらえながら、アレックスが何をすべきか、アプローチの仕方を変えて、どうアイラと歩み寄るかということを、一緒に考えてみましょう、と提案した。
しかし、アレックスは怒りを通じて、今までのように過去をくやむことは言わず、目の前の気にくわない肉親に関心が向いている。60歳をとうに超えているというのに、髪はほとんど白くなっているが、皺は少なく、若い頃の美貌がそのまま残っている。
そして体形は完璧に若い頃と変わらない。ただ、表情はここ数年暗いままだった。その表情に変化が現れたのだった。
アイラの存在はアレックスの固まってコチコチになっていた細胞に活力を与えたのは間違いなかった。
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