第三楽章 ピアノの先生

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第三楽章 ピアノの先生

のん子のピアノの先生は最初は近所の先生だった。とっても可愛らしい先生でおっとりしていてのん子は好きだったのだが、3・4年目で結婚して遠くに行ってしまった。 その頃にはピアノが嫌いになっていたので、これでやめられると喜んでいたものの、母はまったく余計なことをしてくれた。 どういうつてを持っていたのか知らないが、新しい先生を探したのだった。 「東京の音大を出ている先生よ。」 と母はのん子に言った。 「新しい先生はね、高校生の頃に毎週、日曜日に広島から東京までえらい先生のところでレッスンを受けていたそうよ。」 とニコニコのん子に先生の情報を伝えた。 長い一週間を終えて、やっと休みになったというのに、日曜日にわざわざピアノを習いに行くなんて遊べないじゃんかとのん子は内心、自分だったらいやだなあと思った。 東京の音楽大学に入るには、東京でナントカ音大の先生にわざわざ習わないと難しいことを知ったのだが、のん子の最初のピアノの先生と違って、ピアノの腕は格段に上手であることに母は期待していた。 ピアノを一緒に習っていた兄はさっさとピアノをやめてしまった。 母は父や兄には甘いところがあった。しかし、のん子が自分に逆らうのには敏感なところがあった。 「私ピアノ続けたくない。お母さんだって私がピアノがヘタだって言ってたじゃん。黄色いバイエルから始めたのに、あまりにヘタだったから、その前の本に落とされたって怒っていたじゃん。」 みるみる母の顔が険しくなった。 「あんたが真面目に練習しないからでしょ!」 そしてとある知り合いの娘の話になった。 「○○さんのとこの娘さんはね、あんたより2学級上なんだけど、ピアノが好きで好きで、お母さんはやめさせようと思ったら泣いて『やめさせないで、続けたいの』と訴えたそうなんよ。」 と当てこすりを言った。 (かわってあげたいわ・・・)とのん子は思ったが、これ以上言うとさらに火にガソリンをそそぎそうなので黙っていた。 気乗りしないまま、のん子は新しい先生のもとへピアノを習いに行った。今度は電車に乗って行かないといけない場所にあった。 新しい先生の教室はご実家の一室でしかもグランドピアノだった。最初の先生の教室はアップライトピアノだったので、びっくりしてしまった。グランドピアノを見ただけでも、本格的なえらい先生だと思ってしまった。 しかし、である。のん子は新しい先生とは相性は良くなかった。 榎谷恵子先生は、レベルが高すぎるのだった。加えて、のん子はピアノをいやいや習っている。 ほとんど練習しないままに習いに行って、やっとブルグミュラー集に入ったかと思うと、あまりにも進まないので、先生はあきれて、のん子がピアノを弾いている最中に、よく席をはずして、隣の部屋に引っ込むことがあった。 こんなのん子ではあったが、たまには先生に悪いと思ったことがある。のん子はとにかく譜面を読むのが苦手で、譜面からどんな曲なのかがわかるのに時間がかかる。 それである時、意を決して、次の曲にすすむタイミングで、 「先生、一度この曲を弾いてみてもらえますか?」と頼んだことがあった。 しかし答えはNOだったのだ。譜読みができるようにならなければ、一人前とは言えないと逆に説教を受けてしまったのだった。 新しい曲に進むたびに、シャープやフラットの多さにうんざりし、譜面に丸をつけて、間違えないようにするのに四苦八苦だった。一つの曲に一か月もかかり、完璧に弾けなくてものん子の進み具合があまりにも遅いので、おなさけで上げてくれることがだんだん多くなった。ブルグミュラーもすすんでいくにしたがって、シャープやフラットが四つも五つもあったりして、ますますのん子は嫌気がさしていた。ことにフラット♭記号を見るだけで、気が滅入りそうだった。 フランツ・リストはその話を聞いて「ちょ、ちょっと待って。」と叫んだ。 「君はシャープやフラットの意味を教えてもらっていないの?」 「少しならわかるわ。たとえばシャープが一つだったら、ドの音階がソから始まるんでしょ。」 「じゃあちょっと聞いてごらん。この曲はシャープが一つもない曲だ。」 と、フランツリストはバイエルのある曲を弾いてみせた。 「どんな感じかしら?」 「どんな感じって・・・」 「じゃあ、シャープを一つつけてみるわね。音階が変わるってことなのがどういうことか感じてみてくれる?」 「まあ、全然曲の感じが違うわ。」 「どんな風に?」 「なんか、品があるというか、格調が高くなったようね。え?ってことは、シャープやフラットの数によって、曲の感じが全然違うってことなの?」 「あきれるわねえ、君たちの先生はそんなことも教えていなかったの?一つ曲を終えると、じゃあ次っていう風に、この曲がどんな曲かも説明せずに教えてきたのね。というか、日本の先生たちは、専門的な学校でないと、それすら教えないのね。あきれるわ、まったく。まあ、僕も日本各地の音楽大学でレッスンを受け持ってきたけど何かはっきりしない学生が多いわね。思っていること、感じていることを表に出さない子が多いわ。日本の生徒たちは素直でいい子たちだけど、何か張り合いがないわあ。」 しかし、のん子は少し面白くなってきた。じゃあ、シャープが二つだったら、フラットが一つだったら、とフランツ・リストに弾いてみてもらった。 「じゃあ、先生、4分の4とか8分の6のテンポも意味があるのね?」 フランツ・リストはのん子に入れてもらった紅茶(リプトンのインスタント)を吹き出しそうになった。あやうくピアノにかかるところだった。曲を弾く合間に、丸テーブルの置いていたのをちょくちょく口にしていたのだった。のん子には真似はダメだよと言っていた。 「あ、当たり前じゃないの!」 フランツ・リストはおそるおそる、「もしかして君の先生はこの記号はどういう風に教えているの?」 「フォルテね。強く弾きなさいって習ったわ。」 フランツ・リストは首を大きく振った。 「違うわ!音を空間に広げなさいってことなのよ!響かせなさいってことなの!」 のん子は背中がのけぞるくらい衝撃を受けた。まさか、東京の有名な音楽大学を出ている先生が間違ったことを教えているのだろうか。音を大きく弾くということと、空間に音をひろげるとでは似ているようで全然違うではないか。 そもそも日本の音楽教育は、西洋音楽を間違って解釈して教えている? のん子は自分がヘタなのを棚に上げて、新しい発見に驚いてしまった。
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