7人が本棚に入れています
本棚に追加
第五楽章 リスト先生に弟子入りする
リスト先生はなかなか厳しい先生であった。口ぶりは優しいが、相手に有無を言わせないところがあった。だいたい、日本の生徒という生徒は先生に物申すことは学校でもお稽古事の世界ではまったくない時代であった。
しかし、リスト先生は逆に「自分の考えを言いなさい。」とレッスン中によく言っていた。
「感じたこと、思ったことを口にしなさい。」と何度も言ってくれた。
それと共に口をすっぱくして言ったのは、
「普段の生活がピアノに現れる」
毎回耳にタコができるくらいに言われた。中年になるとくどくなるのは日本人でも西洋人でも変わらないとのん子は思った。
普段の生活で、母の洋子に
「外でも行儀悪いのが出るんだからね!」
と、生活のことでよく怒られる。いわゆる躾であるが、のん子は反発する。
外ではちゃんとする自信があったし、そのくせ父が服を脱ぎっぱなしでも、
兄が食事後、皿を下げないのにも注意しない。男には甘い。
のん子ばかり叱られる。
しかし、ハンサムなリスト先生の前に出ると不思議なことが起こる。
素直な気持ちになり、しおらしく、女らしくなってしまう。
母親の「女らしくしろ」は=「男の機嫌を取れ」と解釈してしまうが、
のん子が女らしくなるのは全然、苦ではないし、むしろ楽しかった。
それは、のん子が成長し、大人になった時、日常にあふれた下品なおっさん連中と、リスト先生との違いを分析してみると、リスト先生はのん子を『淑女』として扱ってくれるからだった。
紳士の前では、のん子だってレディにならざるを得ないではかったのだろうか。
土曜日の授業が終わり、いそいで家に帰る。
台所できちんとお昼ご飯を作る。
冷やご飯を利用してのチャーハン、インスタントラーメンにはもやしや
ねぎをきちんと入れる。具なしラーメンが定番だったのん子にしては手間をかけた料理だった。
そしてレッスンに間に合うようにレッスン室に掃除機をかけて、
ぞうきんをかける。
3時のお茶のためにデザートも用意する。今日はホットケーキミックス
を利用したクレープだ。焼き上げたクレープにバターといちごジャムを
ぬってくるくる巻いて、一つ一つサランラップで巻いておく。
冷蔵庫に入れて冷やしておく。
リスト先生は日本に来てから、すっかりコーヒーが気に入ったようなので、
コーヒーも用意しておく。
時間が近づいてくると、ジャージ姿からだいぶましな部屋着に着替えて、
顔をあらい、歯を磨き、髪もととのえる。
リスト先生は口を酸っぱくして、「一流の演奏家の曲を聴きなさい。」
と言った。普段の練習はほとんどリスト先生とおしゃべりをするか、
リスト先生が自分の気分によって、いろんな曲を弾いてくれる。
のん子の演奏を聴いて、ここはこう、あそこはこうと直してとそれをのん子は楽譜にえんぴつで書き込む。次のレッスンまでに練習しておいてね、と言うばかりである。
「この人の演奏がいいねえ。」とどこからかショパンのノクターンのテープを手に入れてプレゼントしてくれた。マルゲリッチという女性の演奏家だった。
のん子はこの時がきっかけで、この女性ピアニストが大好きになっていった。
情熱的な演奏はけっして日本人には出せない音である。それまで演奏家によって曲の印象が変わるということを、思いもしなかったのだ!そんなことすら知らなかったのだ。
リスト先生とのレッスンはのん子は心が満たされるようになっていた。しゃべりたいことをしゃべり、ほほえんで聞いてくれる。時にはリスト先生の自慢話も拝聴することになるが、ショパンはこうだった、女流ピアニストのクララはこうだったよ、とか。メンデルスゾーンにはお姉さんがいて、弟より実は音楽的才能があったらしいと言った。
西洋は日本と比べて女性に対する差別は昔からないと思い込んでいたので意外に思った。クララは演奏家としては表に出ることができたけれど、ファニー・メンデルスゾーンは作曲家として弟の影に隠れた人生を送ってしまったそうだ。
その反面、西洋におとらず女性差別のひどかった時代にピアノが輸入されて以来、日本では演奏家はともかく、ピアノを習うのはほとんど女の子である。
日本はピアノを弾くことは花嫁修業の一環として昔はとらえられていたからだろう。
というようなことをリスト先生とちょっとした考察を言い合うのも面白かった。
しかしリスト先生は家族のことはあまりしゃべりたがらなかった。のん子はちゃっかり、図書館でリスト先生の生涯を調べて、生涯正式な結婚はしなかったものの、子供もちゃんとといて、娘の一人はワーグナーの妻になっていたことを知った。
リスト先生が少し不機嫌になったのは、のん子がワーグナーの話をした時で、『地獄の黙示録』という映画でアメリカ兵がワーグナーの曲を聴きながら、
ヘリコプターで出動するシーンがあったことを話したことがあった。
するとリスト先生はその話を途中でさえぎって、
「音楽はけっして万能ではないわね。時に変な風に利用されることがあるわ。」と言った。
それまで、だれそれの映画にこんな曲が、あんな曲が使われていたと楽しく話をしていて、リスト先生も日本にやってきてテレビで洋画劇場を見ているものだから、よく知っていて話は盛り上がっていたのに。
のん子は少し戸惑った。
リスト先生はおわびのつもりか、ピアノに向かって、ヘンデルの『涙が流るるままに』を弾いてくれた。静かだが時に激しい、心に沁みる曲だった。
のん子もお礼に、某アイドルが歌って大好きな『木枯らしに吹かれて』を弾いた。さすがにショパンのノクターンばかり練習しているとくたくたになるので、リスト先生が好きな曲をどんなジャンルでもいいから練習しなさいと勧めてくれたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!