とある小説家の話

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 男は売れない小説家をしていた。書いても書いても驚くほど本が売れなかったため、しまいには小説を書くのをやめ、怪しげな商材に手を出した。  "運命の小指"という名前のものだった。形状は名前のまま人間の指の形をしていて、指にはめることができる。謳われている文句はこうだった。 「この運命の小指を肌身離さず付けていると、小指の先に繋がれた赤い糸で運命の人に引き寄せられ、必ず結ばれます」  怪しさという概念を煮詰めて、ドロドロになるまで濃縮したような文言。さすがに誰も騙されないだろうと思われたこれに、男は胸を躍らせた。  男は小説を書くときはいつも部屋へ籠り、書き終わるまではほとんど外に出なかった。そのせいか、人と話すことがほとんど無いまま年を重ねてしまったのだ。人とのコミュニケーションといったもののほとんどを放棄し、一人になってしまった彼にとって、それは人生における助け舟のようなものだった。  なけなしの金で購入したそれを、届いたそばから早速着用した。思っていた以上に違和感なく使えたため、どんな時もそれを外すことなく使い続けた。  男はある日、思った。  仮に、運命の人と結ばれたとしても、もし自分に十分な経済力がなければ、一緒に居続けることは出来ないのではないだろうか。男は焦った。そうなってしまえば、せっかくの幸運も水泡に帰してしまう。  もう一度、小説を書こう。そして、それで得た収入で生活していけるようになろう。  その日から男は、人が変わったように、懸命に小説を書き続けた。来る日も来る日も机に向かい、一切の妥協をしなかった。  小説には、男の、未来への希望が詰まっていた。ヒロインは自分の中でも特に理想の女性だったし、主人公の感情描写や、世界観の構築、ストーリー展開、どれをとっても自分の中で最高の出来だと確信した。  小説が書き終わり、男の担当者が完成原稿を受け取りに行くころには、季節が何度か移り変わっていた。  ***  担当者が彼の家へ入ると、やけに静かだった。男は、執筆に集中している時、周りの音が聞こえなくなるから、用事があればこの鍵で勝手に家の中へ入ってください、と家の鍵を渡していた。担当者は男とあらかじめ電話で連絡を取っているし、今回も勝手に入っていいという了承は得ている。私は自宅に居るので、と。  けれど、見当たらない。どこにも。  担当者は気味悪く感じたが、とりあえず、完成原稿がどこにあるかだけでも確認しようと思った。その後でもう一度男へ連絡して、原稿を持っていく許可を取ればいい。ただ単にどこかへ出かけているだけかもしれないから。  室内を奥へ進み、書斎の扉を開く。男はいつも、そこで執筆をしている。  あった。原稿だ。とりあえず安堵し、男へ電話をかける。数回呼び出し音が鳴り、反応があった。 「もしもし」 「お疲れ様です。Fです。原稿を預かりにご自宅へ来たのですが、不在だったので原稿だけ貰っていきますね」 「え? 嘘でしょう」  男は驚いたように声をあげた。続けて、耳を疑うようなことを話し始めた。 「私は今、自宅にいますよ」 「え?」今度は、担当者が驚きの声をあげる。 「今、書斎に居るのですが、どのあたりにいらっしゃいますか」 「いや、私も今、書斎に居ます」  返ってきた答えに、担当者はより混乱する。  同じ書斎に居る? けれど、姿が見えない。一体どういうことだろう。状況を整理するために、辺りを見回す。  ──ふと、不自然な光景が視界の隅に映った。  完成したはずの原稿が、ひとりでに文章を紡いでいる。誰がいる訳でもないのに、文字が次々と浮かび上がってくるのだ。 「なんだこれは」呟きながら、内容を読んでみる。  担当のF君から、電話がかかってきた。一旦手を止め、応答する。 「もしもし」ずっと黙りこくったままで執筆をしていたせいか、声が少し小さくなってしまう。 「お疲れ様です。Fです。原稿を預かりにご自宅へ来たのですが、不在だったので原稿だけ貰っていきますね」  何を言っているのだろう、と思った。状況がうまく飲み込めず、後ろを振り返る。けれど、誰も居ない。いつの間に入ってきたのだろう。 「え? 嘘でしょう」不気味なものへの恐怖を振り払うために、あえて驚きを隠せないといった声色で返事をする。 「これって……」  担当者は自分の背に不気味な気配が抜けていくのを感じた。同時に、小説の中の文章にも変化が生じる。 「これって……」受話器の奥から小さく声がした。F君の声だった。私は何が何だか分からず、彼に問うことにした。 「「どうしたんですか?」」  Fは驚きを隠せなかった。受話器の奥の声と、原稿に書かれていく文字の内容が、リアルタイムで繋がっている。つまり、男が小説の中に入り込んでいるということになるわけだが……。  呆気にとられていると、また受話器の奥から声が聞こえた。 「すみません。今、妻に呼ばれて、昼飯を食べに行かなければ、とにかく、原稿は完成したのでいつでも取りに来てください」  そこから電話は切れた。  妻? たしか彼は、ついこの間まで彼女の一人も居たことがない、と話していたはずなのに。そこまで考えて、彼が以前話していたことをもう一つ、思い出した。 「これ、この間買ったんですけどね。"運命の小指"っていう名前で。これをずっとつけてると、運命の人に巡り合えて、結ばれるそうなんですよ」  書く文章は魅力的な人だと思っていたけれど、やっぱりどこかちょっとおかしい人なのかな、と思ってその時は受け流した。けれど。 「今回のヒロインは、これまでで一番魅力的で、最高な人になったんですよ。もはや運命を感じるぐらいに」  原稿を受け取りに行く旨を伝えた電話中に、彼が発した言葉。 「運命を感じるくらいに」  Fはすべてを理解した。飲み込むことは出来なかったけれど、辛うじて今置かれている状況がどいうものであるかは、理解した。釈然としないが。  男は自身が書いた小説の中のヒロインと結ばれたのだろう。何せ彼女に"運命を感じていた"のだから。 「まあ、幸せならいいのか?」  複雑な感情を腹の中に飼い慣らしながら、Fは、男の幸せそうな結婚生活を眺めていた。自身の上司にどう言い訳しよう、と、そればかり考えながら。
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