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ウミの津
ウミの津―――霞んで見える陸の孤島 立ち至る者なし
キビの村ではそう聞いていた。
しかし、どうだろうか。なんだ、この賑わいは。篝火がそこら中に灯っており、夜なのに昼間のように明るい。大路には多様な商店が軒を連ね、人々は楽しそうに出歩いている。
今日は何かのお祭りなのだろうか。
そして何より陸地が懐かしい。
大路に集う人々の言葉は聞き慣れないものが多い。イズモ人ともキビの村周辺のものとも異なっている。
服装に至ってはもっと顕著だ。見たこともない服装の者がいる。
「おっと、ごめんよ」よそ見をしていたせいで行き交う人と肩が接触してしまった。
「いや、こちらこそ……」前を向くと目が赤く、頭に角が生えている者がいた―――鬼だ。
「下がれ、モモタケル! 俺が射貫く!」咄嗟にキジヒコが弓矢を構える。
その姿を見た人々から悲鳴が上がる。一瞬でその場が騒然となった。鬼とはそういう存在だ。
「おいおい。止してくれよ。軽くぶつかっただけだろ?」鬼は心外といった顔で肩をすくて愛嬌のある仕草をする。なんと馴れ馴れしいやつめ。
そう思った時だ。
「ササラ様がいるぞ!」
「ササラ様、狼藉者です! 弓矢を構える者がいます!」
「お助け下さい! ササラ様」
なんか様子がおかしい。完全に我らが悪者扱いされているような……
「キジヒコ殿、弓矢をお納め下さい。ここはウミの津。あなた方の敵はいません」
「しかし―――」鬼を前にしてキジヒコは退くに退けない。
「キジヒコ。ここは退こう。ここにはここの事情があるのだ」イヌキはキジヒコを制して取り成す。「……わかったよ……」と、これにはキジヒコも素直に応じる。
「この辺の事情はエンノジョウに会ってからお話しします。今は私について来て下さい。エンノジョウの屋敷まで参りましょう」一瞬騒然としたものの、ササラの存在がそうさせるのか、通りは直ぐに喧噪を取り戻した。
鬼は「ホントに勘弁してくれよ」などとぶつぶつ言いながら行ってしまった。
やはり船内で色々聞いておくべきだったと後悔したが、乗っているだけで精一杯だったのでこれは仕方のないことだ。
舟はよく揺れる。揺れると気持ちが悪くなり、乗っているだけで精一杯になる。そんなものに半日も乗っていたのだ。
ササラに導かれるままに大きな屋敷の前まで来た。
「モモタケル、イヌキ。これはイヌキから聞いていた竜宮城というやつにそっくりだぞ!?」荘厳な門を見てキジヒコが興奮気味にはしゃぐ。なかなか忙しいやつだ。
「ここがエンノジョウの屋敷です」
エンノジョウの屋敷はウミの津を見渡せる高台にある。
先ずはその門が立派だ。下部は漆喰だろうか。白く塗られている。その中央にはアーチ状の通路が開いており、上部は木造であるものの、朱に塗られている。屋根は緑掛かった瓦であり、金の細工が施されている。
促されるままに庭に入ると大きな池がある。その池には見たことのない魚が泳いでいる。赤や白の模様が入っており、その見た目が美しい。食用ではないことがわかる。
「やはり珍しいですかな?」背後から声がした。その声は低く、落ち着いている。
「はい。キビの地方では見ないものですから―――」振り向くと御引直衣を着た上げみずらの男性が立っている。その表情は宥和で教養の高さを窺わせる。年の頃は大分上、四十代ぐらいだろうか。顔には品の良い髭が生えている。
「それはニシの陸に住む鯉という魚です。見て楽しむものです」
「鯉―――ですか」食用ではないと見抜けた自分を褒めたい。
「はい」その男性は優しく微笑んでいる。
「エンノジョウ殿、モモタケル殿たちをお連れしました」ササラが静かに報告した。
この男があのエンノジョウか。剛腕の商人と聞いていたので思った様相と異なり、少し面食らう。
「ササラ殿、これは痛み入ります。本来であれば私自ら出向くところでしたのに……」
「エンノジョウ殿にはエンノジョウ殿の仕事がありましょう。それに舟は心地よい。懐かしい土地にも行くことができました」二人は穏やかに言葉を交わす。
「皆さま、船旅でお疲れでしょう。細やかですが宴席を用意しております。先ずは風呂にでも浸かり、疲れを癒して下さい。お話はその後に伺いましょう。当屋敷の風呂は大きいばかりではなく、温泉ですぞ」
一先ず、エンノジョウの好意に甘える事にした。
風呂の位置を確認するとキジヒコは嬌声を上げながら風呂へと向かっていった。その後ろをササラが追いかけて行く様はまるで親子のようで微笑ましい。
しかし、その大きいばかりではない風呂という存在が、あのような大きい問題になるという事を誰が予想したであろうか。
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