鬼と人

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鬼と人

「ではお言葉に甘えて―――」いやいや、それはおかしいだろ、とモモタケルは思考する。  家の中に温泉がある。そうエンノジョウは言った。    モモタケルにとって、そんな事はどう考えて非常識だ。  温泉というものは山奥にある。仮に近くに沸いていたとして、どのようにして風呂まで引いて来るのか、という疑問が残るのである。  モモタケルの常識からすると、だいたい家の中に風呂などというものがあるのがおかしい。普通は川で水浴びと相場は決まっている。沸かした湯というのは病人―――それも重度の病人が入るものと決まっているではないか。  ―――そうか。これはショウジョウの一族なりの笑いツボなのだろう。ヤマトにはヤマトの、イズモにはイズモの笑いのツボがあると言う。これは乗ってやらなければ失礼というやつか、とモモタケルは瞬時に判断した。  即ち、家の中に風呂ない―――つまり温泉もない。ないのにあると言う。それに対するツッコミ待ち。これがエンノジョウが求めている笑いなのだ。少し高度だが―――しかしモモタケルにはその笑いのセンスがわかるのである。  さすが富者の考えることは一つも二つも上を行く。ショウジョウノエンノジョウとは食えない男だ。  ここはきっちりツッコミを入れておかなくてはならない。 「ははは。いやいや、なんでやねんて―――」お言葉に甘えて、からのノリツッコミである。これは練度が高い。さぞ、驚くことだろう。  と、モモタケルが思うが早いか、案の定、エンノジョウはそのツッコミを受けて動きが止まっている。  エンノジョウだけではない。辺りの空気がその動きを止めていた。  いや、動くもののない世界。  静寂―――その言葉が相応しい。  よし来い―――もう溜めは十分だ。ここで来るのだ、ドカンと。  ―――笑いの渦が。  いかん、いかん、とモモタケルはいずれくる笑いの衝撃に身構えてしまう。ここはあくまでも自然な感じで――― 「あかん、あかん。おもろすぎますわモモタケル殿―――」  !?   静寂を破ったのは意外にもササラだった。 「話の脈絡がなさ過ぎて逆におもろい感じになって―――」ササラの優艶な様子から伺えないほどにウケている。最後の方はもはや言葉になっていない。 「いや、そんなにウケていただけると逆に照れます―――」  その言葉にササラの様子が豹変する。 「は!? 何言うてはりますの。おもろいわけないやろ。ちっともおもろない。それがキビツの笑いなんか?」  さきほどと違いその眼光は鋭い。  背筋を伸ばし、こちらを睨みつけるその双眸は―――赤い。 「まぁまぁ、ササラ殿、ここは穏便に。モモタケル殿は長い船旅で疲れているのです。まずは旅の疲れを癒して下さい。お話しはそれから―――」とりなすエンノジョウの顔がぎこちない。 「まぁ、先ずはお言葉に甘えようではないか。な?」と、イヌキはモモタケルをとりなす。心なしかイヌキの顔も固い気がする。 「俺、温泉入ってみたいな。モモタケルとは別の湯だと思うけど。イヌキは―――」 「はい、そこまで。とにかく行こう」  イヌキとキジヒコがあからさまに気を遣ってくれているのが分かる。それだけにモモタケルは何か心苦しい。  しかし、ササラにキビツの笑いを誤解されたままではいけない。 「ササラ殿。さっきの面白いところはですね―――」自分の笑いの解説ほど切ないものはない。しかし、誤解から争いが生じるものなのだ。我慢せねばなるまい。 「まだわからへんのか! そもそもやなぁ―――」ササラの目の輝きが増す。 「ササラ殿! そこまでに―――。モモタケル殿、私も温泉に共に浸かろうと思います。裸の付き合いというやつですな。イヌキ殿も、ささ。ははは―――」エンノジョウはやや早口でまくし立てる。 「あ、いや、俺は―――」と、イヌキはなぜか乗り気ではない。  モモタケルはササラに笑いのセンスを分かってもらえないまま、とにかく風呂―――いや温泉へと行くことになった。  カポーン―――心地良い音が響く。結局イヌキは「全員が湯に浸かっては危険に対応できない。後で入るからいい」と言って入らない。キジヒコは当然のことながら女湯だ。ササラに連れて行かれた。  というわけで、モモタケルはエンノジョウと二人で入ることになった。角が気になるところではあるが、手ぬぐいを撒けばそれほど違和感はない。  むしろ勧められた風呂に入らずに不審に思われる方が不都合だ。 「少しは落ち着かれましたかな?」  湯煙の中にエンノジョウの姿が浮かぶ。これは露天風呂というものらしい。キビの山奥にある温泉と同じで岩に囲まれた中に湯が溜まっている。  知っている温泉と違うのは洗い場、桶、椅子などに高級な檜を用いている点だ。その香りは清々しく、その香りは気分を落ち着かせる。さきほどまでのササラに対する焦燥感が嘘のように霧散するのを感じる。 「すみません。キビツの笑いを分かってもらいたくて―――」モモタケルは少し未練がましいとは思いつつもエンノジョウには分かってもらいたかった。 「キビツの笑いとは、ノリツッコミのことですな?」真面目に訊かれるとなぜか恥ずかしい。「はい」と応じるのが精一杯だ。 「それは運が悪かったですな。ササラ殿は笑いにうるさいのです。そしてノリツッコミには厳しい。中途半端なノリツッコミには特に」中途半端という言葉がモモタケルの胸を抉る。 「中途半端だったでしょうか?」ここまで来ると何がおかしいのか知りたくなる。  エンノジョウは「ふー……」と一呼吸置きながら湯に肩まで浸かる。湯は白濁としていて硫黄の香りがする。エンノジョウが起こした波紋がこちらまで達した。屋根からピチョンと水滴が落ちる。 「あれは『お言葉に甘えて』からの『なんでやねん』だったのだと思いますが―――」その通りだ。が、言葉にするとなんとも言えない感じになる。 「はい、そうです。ノリツッコミのつもりです」と、モモタケル。 「そうですか―――。これには重大な過失があります」エンノジョウの声のトーンが上がる。「それは―――?」その緊迫感にモモタケルは思わず唾を飲みこむ。その音がエンノジョウに聞こえているのではないだろうかと感じた。  エンノジョウは再び「ふー……」と一呼吸置きながら、湯舟の檜の縁に腰掛ける。 「『なんでやねん』に掛る言葉がありません。『お言葉に甘えて』だけだと何なのか? が、はっきりしません。話の流れ的に風呂の話だと思うのですが。しかし、『風呂に入ること』が『なんでやねん』となっており、モモタケル殿が企図したノリツッコミなっていません。おそらくモモタケル殿は『温泉が家の中にあるわけがない』ということをノリツッコミで表現したかったのだと思いますが。違いますか?」  理路整然として間違いがない。あの短い間にそこまで理解し、推論を保持していたとは。 「ササラ殿が言っているのはそこです」エンノジョウは優しく微笑む。 「私の腕があまかったようです。それとは別に―――」謎はまだ残っている。 「ササラ殿のあの言葉は? 聞いたことのない言葉でした。ウミの津の街でも耳には入ったのですが―――。あの方はこの辺りの方ではないのですか?」  エンノジョウの少し困った顔をする。 「―――これはもう少し時間が経ってからと思ったのですが……」  エンノジョウは「ふー……」と再び一呼吸置く。 「街で鬼を見ましたか?」 「はい。キビツやイヌガミの村では信じられないことですが。しかし、キビの村を襲った鬼とは少し違うような気もします」 「街の鬼はニシの陸の鬼です。しかし、ササラ殿は―――」エンノジョウの双眸がこちらを向いている。「誤解がないように言いますが」ピチョンと屋根から水滴が落ちた。 「ササラ殿は鬼ヶ島の鬼。もともとはキビの村に住んでいた鬼の一族です」  かけ流しの湯が湯舟から溢れて出る音だけが響いた。
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