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 ベージュのトレンチコートをスーツの上に羽織って会社を出ようとしたら、アスファルトが濡れている事に気が付いた。  顔を上げて、行き交う人達の様子を観察する。  昼下がりのオフィス街には人通りはまばらで、傘をさしている人もいれば、急ぎ足でしのいで人もいる。  僕はデスクに置いてある折り畳み傘を取りに行こうと、踵を返そうとした時。「傘、キライなんだよね」と、聞こえた気がした。  僕は直ぐに、霧のような雨で霞む景色の中に、声の持ち主を探したけれど、誰もいなくて。  君を思い出した。    「勇気(ゆうき)って名前なのに、なんで勇気が無いんだよ」  僕の名前をからかう声は、幼稚園の頃から変わらない。  生まれたての赤ちゃんに「勇気」と名付けた両親の願いに反抗するように、小学3年生になった頃には、体が小さくて運動が苦手で、大人しくて慎重な性格に育っていた。  今日も、校庭の片隅にあるジャングルジムに誘われて登ると、次々と飛び下りる同級生たちに取り残されて最後の一人になっていた。  「誰が一番高いところから飛び降りられるか」元気な男の子たちの勇気を試す遊びは、僕にとってはとても怖くて、僕の背ほどしかしかない高さでも、高層ビルの屋上のように思えた。  僕は怯えながら首を横に振るだけで、落ちないようにと両手で必死に色とりどりの鉄の棒を握りしめる。  「勇気、早く飛べよ。こんなの、跳び箱と同じくらいの高さだぞ!」  体が大きくて、運動神経がいい同級生が下から声を掛けるけど、跳び箱も跳べない僕には、何の慰めにもならない。  僕はだた、硬く目をつぶって、首を横に振るだけ。  キーンコーンカーンコーン。  休み時間の終わりを知らせるチャイムは、救いのベルだった。  同級生たちは何か言いながら、校舎へと駆けて行く。  僕はそれを見送りながら、怖くて硬くなった体を慎重に動かして、一歩ずつジャングルジムを降りた。  渇いた地面に両足が着いた時、ようやく深く息が吸えた。    下校時間。昇降口を出ようとして、地面が濡れているのに気が付いた。  色とりどりのランドセルと、色とりどりの傘が校門を出て行くのを目で追いながら、僕はジャングルジムの上に登った時のように足をすくませた。  「雨に濡れてはいけません」幼稚園の頃、雨に濡れて熱を出した僕に、ママが注意をした言葉が頭の中で再生された。  でも、今日は傘を持って来てないんだ。  新学期が始まって間もない今日は、持って行く荷物が多くて、傘まで持てなかった。  頭の中のママの声に、頭の中で言い訳をする。  言い訳をしても、何の解決策にもならない事は知っている。だから次に僕は、奇跡が起きて今すぐ雨が止むことを願った。  青いランドセルのベルトを握りしめながら、霧のような雨をじっと見て、太陽が顔を出すことを想像する。  色とりどりのランドセルや、色とりどりの傘が僕の視界から消えてしまっても、救いの太陽は顔を出さなかった。奇跡が起きないことを実感し始めた時、目の前に薄いピンクの傘がさし出された。  「えっ?」   驚いて持ち主を見ると、同級生の君がいた。  「勇気君。傘持って無いんでしょ。これ、使いなよ」  僕と同じくらいの背に、僕と同じくらい細くて白い君は、長い髪と同じ色の黒いランドセルを背負って僕に傘をさし出していた。  「未来(みらい)ちゃん。傘、二つ持ってるの?」  「ううん」  「だったら、未来ちゃんが使わないと、濡れちゃうよ」  僕は君の優しさを傷つけないようにと、恐る恐る断った。  「傘、キライなんだよね」  君は、ニカっと笑って、僕に傘を押し付けると、薄く霞む雨の中に駆け出した。  3年生になって初めて君と同じクラスになったけど、始業式の時には、君が自由な人だって事は気が付いていた。  見た目は、僕とそう変わらず、大人しそうに見えるけど、君は怖いモノがないかのように、興味があることに夢中になる。図工の時間が終わって休み時間になっても、絵を描き続けていたり。授業中、先生にしつこく質問するのは、もう当たり前の景色になっていた。  僕はそんな君から受け取った傘を開いて、柔らかい雨の中を楽しそうに走る君の背中を必死に追いかけた。  君は時々、僕がついてきているのを確認するように振り返るけど、止まってはくれない。それどころか時々声を上げて楽しそうに笑いながら、いつもの通学路とは違う道を進んで行く。  最初は戸惑っていた僕も、途中から鬼ごっこをしているみたいに思えてきて、なんだか楽しくなってきた。必死だった僕の顔は、いつの間にか、君と同じ笑顔になっていた。  いつも遊ぶ公園よりも、広い公園に君が入って行くと、遊具がある場所を通り抜けて、芝生が広がる広場を駆け上がり、一本だけ大きな木がある場所にやって来た。  君は木の後ろに隠れると、息を切らした僕を待ち構えて「わっ!!」と脅かす。  君がいるって分かってるのに、律儀にも僕は「うわっ!」っと声を上げて驚く。  そんな僕を見て、また君が笑う。  二人の息が整うまで、笑い合っていたら「雨、止んだね」と君が空を見上げた。  「本当だ」  僕が願った奇跡は、少し遅れてやって来た。  「ねぇ。面白い遊び知ってる?」  君は急に難問を僕に問いかけると、答えも聞かずにランドセルを下ろして、濡れた芝生に寝転んだ。  「えっ!汚れるよ」  僕は万歳をしながら寝転ぶ君を見下ろして注意した。  なのに、君はまたニカっと笑って僕を見ると「行くよ」と言って芝生の上を転がり始めた。  木を頂上に、なだらかな坂になっている芝生の広場は、ちょうどいいスピードで君を転がす。  雨で濡れた緑の芝生の上を、薄いピンクの服を着た長い髪の君が転がって行く様は、ちょっと異常で。でも、おかしくて、僕は思わず吹き出した。  「勇気君も一緒にやろう。目が回ってすごく楽しい」  白い顔や黒い髪、ピンクの服に芝生を付けた君の姿が面白くて、また吹き出した僕の手を引っ張って誘う。  「雨に濡れてはいけません」というママの言いつけをとっくに破ってしまっている僕は、普段なら絶対にしないのに、何の抵抗も無く、濡れた芝生の上に寝転んで、君と一緒にゴロゴロと転がった。  何回回ったのか分からないくらい転がり、クラクラと視界が揺れると、訳が分からない楽しさが体の中から湧き上がり、僕たちは大きな声を上げて笑いながら、何度も転がった。  「あー、疲れたぁー」  君が木の下で大の字に寝転んだから、僕も隣で大の字に寝転んだ。  雨で濡れた芝生は、気持ちいモノじゃ無いけど、心は晴れやかで、目に入る木漏れ日が、いつもより眩しく思えた。  「勇気君の髪、可愛くなってる」  寝転ぶ僕の顔を上からのぞき込んだ君は、僕の髪を少しだけつまむと、青とピンクの花びらを白い掌に載せて見せた。  「お花が勇気君に集まって来たよ」  君の長い髪が僕の頬にわずかに触れた時、その冷たさに驚いた。  「未来ちゃん、髪の毛がビショビショだ。風邪ひいちゃうから、もう帰ろ」  「えー」と渋る声を上げる君の手を掴んで、桜の花が散り始めた公園を後にした。    ずぶぬれで、草だらけになって帰って来た僕を見たママは、目を丸くして驚いたけど。僕が楽しそうに未来ちゃんと遊んだ事を話していると、怒るよりも笑顔になって、フカフカのタオルで髪を拭いてくれた。  ママの注意通り、雨に濡れた僕は、その夜からしっかり熱を出して、一週間も学校を休んでしまった。  熱にぼーっとしながら「未来ちゃんの熱は、僕にください」と神様にお祈りした。  一週間後、前よりも少しだけ勇気を持って学校に行くと、未来ちゃんはいなかった。  「勇気が熱出して休んでる間に、転校したんだよ」同級生が教えてくれたけど、またからかわれているだけだと、信じられなかった。  それが信じられたのは、君の机が教室から消えた時だった。    もう、10年以上前の思い出を、今も鮮明に思い出してしまうのは、君がとっても楽しそうだったから。  僕もとっても楽しかったから。  それだけかな?  あの、熱の時。  神様にお願いしたのは、僕たちの楽しかった雨の思い出が、苦しい思い出になって欲しくなかったから。  それだけじゃないな。  願う事で、君を守りたかったから。  あれは、きっと。初恋だったんだ。  燃えるような、苦しくなるような、切ない恋じゃなかったけど。  誰かを守りたいと思える、小さな勇気をくれる気持ちは。  恋。だったんだ。  頬を撫でるように降る春の雨のように、ゆっくりと地面に浸透して、草木を芽吹かせる。  そんな、恋だったんだ。  あれから、もう何度も春を迎えたけど。ようやく僕の中に、君が蒔いた恋の種が。  咲いた。    了
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