木に棲む魔女がくれたお薬

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来てしまった。私はついにやって来てしまった。森の奥の奥の奥の、おそらくここが奥底の突き当り。これ以上先には行けないところ。突き当りにある太い木。見える人にだけに見える扉。招かれざる客には決してつかむことのできないドアノブ。そして、迎え入れられる人だけが押し入ることのできる扉。見えた。たしかに私には見えた。扉が見えて、私が手を添えたところにドアノブがあって、音を一切立てることなくドアノブは軽々と周り、扉は軽々と開かれた。恐れることなく私はその中に入って行った。ひとの気配がまったくしない。いかにも魔女のそれらしい部屋。古びたテーブルの上には大きな釜が据えてあって、斧だの、極太の棍棒があって、トカゲのしっぽの切れ端みたいのとか、蟹のハサミの片方だけとか、パクチーみたいな草の残り、数粒の枯れかけたザクロ、灰が被ったような桔梗の残骸などなどが乱雑に所狭しとひしめいていた。テーブルの周りを歩くとこれまた古びたスツール椅子があって、その脚の傾き加減から座るためではなく、長年寄りかかっているらしいことが想像された。テーブルの下にはネズミ捕りの罠どころか、野生の熊でも捕獲できそうなギザギザの刃がむき出しになった輪っかの形をした罠まで置いてあった。ところどろこに散らばるドングリやくるみ、錆びた紅葉の葉が異様さを増した。 「ニャー。」 不意に猫と思われる鳴き声が聞こえ、そちらを振り向いたが姿は見えなかった。壁には塗り込まれたような猫の紋様があったけれど、どういう訳か片目が潰されていた。私はちょっと怖くなってきてもう帰ろうと扉に向かったところ、仁王立ちする相撲取りのように体格のいい女性の姿があった。 「まぁ、お座りよ、せっかく来たんだ。」 私は抗う術を知らなかった。でっぷりとした魔女は私を部屋の中へと振り向かせ、背中を押すようにしてさっきのテーブルへと推し進めた。さっきのスツールは結構な高さがあって、私が座ると足が床にはつかなかった。魔女がスツールの三本脚の一本コツンと軽く蹴飛ばすと、長さが調整されたのか、私の両肘がテーブルに据えられ、スツールの上のお尻を突き出すようにして、足がちょうど床に着いた。 魔女は私の真向かいにいた。大きな釜の向こう側。釜の下、テーブルの表面には建付けの小さな囲炉裏があるみたいで、釜ではなにかが煮えたぎっていた。私には決して中身を見せてはくれなかった。鉄のブツブツがついた棍棒をゆっくりとかき回し、時折私の方をチラリチラリとみた。そして魔女は右を見て、左を見て、なにかを探しているようだった。 「出てきて、あれを取っておくれよ。」 魔女がそういうと、壁から片目の黒猫が出てきた。猫は白い芋虫のようなものを咥えていて、それを魔女はひったくるように奪ったかと思うと、まっぷたつに引きちぎって鍋に放り込んだ。それからペッパーミルのようなものを回すようにして鼻がツンとするような粉も、背後に置かれている冷蔵庫の上に置かれている浅いお皿を取ってカレーのような黄色い粉をひとつかみすると、それも鍋の中にばらまくように入れた。 私の方を見たかと思うとバチッとウィンクしてみせた。このウィンクの不気味なことったらなかった。色気も魅力もなんにもない、この婆さん一体なんなの?と吐き気を覚えるほど気味の悪いウィンクだった。 魔女はまた冷蔵庫の方を向いたかと思うと、今度は瓶を持ってきた。手のひらに収まるほどの小さくて透明な、香水を入れるような瓶。お玉を取り出したかと思うとそれを荒々しく鍋の中に突っ込み、ゆっくり大きく一回りさせた。ゆっくりとお玉を持ち上げると、その小さな瓶に一気に緑がかったどす黒いドロリとした液体を押し流しこんだ。そして、氷柱のようなガラスの蓋をポンとのせた。不思議なことには蓋が閉じられた瞬間、瓶の中の液体は半透明の薄っすら明るい桜色の液体に変わった。 「うわぁ。」 私は思わず声を漏らした。 「多めにしといたからね、あんたのおくすり。」 魔女は得意そうに笑顔を見せた。 「いいかい。絶対に、家に着くまで、途中で飲んじゃいけないよ。」 魔女は私に瓶をもたせ、この部屋の中へと私を押し進めたときと同じように背中に手を添えて、今度は出口の扉の方へと私を導いた。 「一口でもダメだよ。」 「分かりました。」 私がそう言ったとき、私はもう木の外側に立っていた。木の幹にさっきは見えた扉はもう見えなくなっていた。私は木の前で右へ左へ行こうとし、幹を叩いてもみたけれど、それはもうただの木で、ノブもなければ扉もなかった。 空が明るい色を失っててきたので、私は家へ向かうことにした。来るときには見当たらなかった湖があった。湖は真っ青な色が不気味なくらい美しかった。どこからか魚が跳ねる音がした。水面を見ていると喉の渇きを覚えた。そういえば私は桜色の液体を手に持っていた。 これは家に着くまで絶対に飲んではいけないって言われたお薬。そう思えば思うほど、もう飲みたくなってしょうがなかった。そもそもなんのお薬だっけ?あの魔女はなんでも願いごとをかなえてくれるんだよね。願いごとを伝えなくても願いを叶えてくれるんだって聞いてた。伝えなくても私の願いを理解してくれたんだろう。でもそんなことよりも、いまはもう喉が渇いて渇いてしょうがない! …ちょっと、一滴舐めてみるくらいなら大丈夫だよね。私はそう思った。瓶の蓋をとって、口の部分を左手の手のひらの真ん中に押し当てるように瓶を逆さまにしてみた。手のひらの濡れたその部分は緑がかったどす黒い液体がドロリとしていたけれど、そんなことはお構いなしに私はそれをベロリと舐めた。 …うん。大丈夫みたい。特に身体にも気持ちにも変化が起きたようには思えなかった。ひと舐めしただけだけれど、渇きは癒やされたようだった。 家へ向かって歩き出そうとふと立ち上がったところ、湖の方からまた魚が跳ねるような音が聞こえた。それを見ようとした私が水面に見たものは、さっきの醜い魔女の顔だった。目をパチクリとさせたところ、不気味にウィンクして見せた魔女のそれに瓜二つの不気味で醜悪なそれになっていた。
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