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夜の翼
「カミーユ、どうしたんだい、こんな時間に事務所に電話を入れてくるなんて。いつも落ち着いている君らしくもないよ」
「悪い予感がしたものだから」
カミーユ・ベルトランが低い声で壁掛け電話に向かって言うのを、息を詰めてルイ・ボワイエは見つめた。カミーユの艶やかな金髪は急いだためか乱れ、白い肌には汗が滲んでいる。
カミーユと、電話の相手、ジャン・ベルトランがたった一ヶ月前に結婚したばかりであることを、ルイは知っていた。だからこそ、この真夜中にカミーユが家を訪れ、電話を借りたいと求めてきた時、何も聞かずに応じたのだ。
「悪い予感だって! 冗談だろ!」
電話の向こうでジャンは笑ってみせた。
「ブエノスアイレスはこの通り快晴だ。月明りがなにもかも照らし出してくれるさ。晴れた夜に飛ぶのはすてきだよ。離陸してしまったら町はまるで海の底だ。僕たちは宝石箱みたいな星々の中に落ちていくんだ」
「夜に飛ぶなんて、どうかしてる。ああジャン、わたしは心配なのよ」
幼馴染のジャンが、郵便機のパイロットになったことを知った時、驚きと共に、ああ、あのジャンなら、と思ったことをルイは覚えている。見栄えが良くて、自信に溢れていて、正義漢で、世界をものともしない向こう見ずなところがあった。彼にほんの少し嫉妬していたのだ。だが、彼なら夜の空を切り開けるのではないか、と確かに思わせる何かを持った人間であることには相違なかった。
「僕たちには崇高な使命がある。きっと今後は飛行機の時代が来るんだ。夜に飛んで空を移動する時代が。僕らは夜間航路の開拓者になるんだよ」
熱っぽくジャンは語ったが、反対にカミーユの声は冷めて、震えていた。
「怖くないの?」
「怖くなんかないね」
「嘘」
彼女の口調は、はかなげな外見にそぐわないほど強かった。
「わたし、知ってるのよ。あなた、いつも、夜に飛ぶ前、ワインを一杯飲んでいくじゃない。ピノ・ノワールを一杯。あれは、怖さを紛らわせるためじゃなくって?」
「少しのワインは身体にいいんだぜ」
「馬鹿おっしゃい」
ジャンは少しだけ口ごもっていたが、
「最期の一杯になるかもしれないからな」
と、真剣な声で答えた。
「危ないことなんて、百も承知なんだ。なんせ、誰もやってこなかったことを僕らはやっているわけだからな――。だが、だからこそ命を賭ける価値がある仕事だと僕は思う。できればカミーユ、君にもそのことをわかって、応援してもらいたいんだ」
「酔っているのね」
「何に」
「夜の翼に」
それっきり、カミーユはしばらく押し黙った。
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