夜の翼

1/2
前へ
/2ページ
次へ

夜の翼

「カミーユ、どうしたんだい、こんな時間に事務所に電話を入れてくるなんて。いつも落ち着いている君らしくもないよ」 「悪い予感がしたものだから」  カミーユ・ベルトランが低い声で壁掛け電話に向かって言うのを、息を詰めてルイ・ボワイエは見つめた。カミーユの艶やかな金髪は急いだためか乱れ、白い肌には汗が滲んでいる。  カミーユと、電話の相手、ジャン・ベルトランがたった一ヶ月前に結婚したばかりであることを、ルイは知っていた。だからこそ、この真夜中にカミーユが家を訪れ、電話を借りたいと求めてきた時、何も聞かずに応じたのだ。 「悪い予感だって! 冗談だろ!」  電話の向こうでジャンは笑ってみせた。 「ブエノスアイレスはこの通り快晴だ。月明りがなにもかも照らし出してくれるさ。晴れた夜に飛ぶのはすてきだよ。離陸してしまったら町はまるで海の底だ。僕たちは宝石箱みたいな星々の中に落ちていくんだ」 「夜に飛ぶなんて、どうかしてる。ああジャン、わたしは心配なのよ」  幼馴染のジャンが、郵便機のパイロットになったことを知った時、驚きと共に、ああ、あのジャンなら、と思ったことをルイは覚えている。見栄えが良くて、自信に溢れていて、正義漢で、世界をものともしない向こう見ずなところがあった。彼にほんの少し嫉妬していたのだ。だが、彼なら夜の空を切り開けるのではないか、と確かに思わせる何かを持った人間であることには相違なかった。 「僕たちには崇高な使命がある。きっと今後は飛行機の時代が来るんだ。夜に飛んで空を移動する時代が。僕らは夜間航路の開拓者になるんだよ」  熱っぽくジャンは語ったが、反対にカミーユの声は冷めて、震えていた。 「怖くないの?」 「怖くなんかないね」 「嘘」  彼女の口調は、はかなげな外見にそぐわないほど強かった。 「わたし、知ってるのよ。あなた、いつも、夜に飛ぶ前、ワインを一杯飲んでいくじゃない。ピノ・ノワールを一杯。あれは、怖さを紛らわせるためじゃなくって?」 「少しのワインは身体にいいんだぜ」 「馬鹿おっしゃい」  ジャンは少しだけ口ごもっていたが、 「最期の一杯になるかもしれないからな」  と、真剣な声で答えた。 「危ないことなんて、百も承知なんだ。なんせ、誰もやってこなかったことを僕らはやっているわけだからな――。だが、だからこそ命を賭ける価値がある仕事だと僕は思う。できればカミーユ、君にもそのことをわかって、応援してもらいたいんだ」 「酔っているのね」 「何に」 「夜の翼に」  それっきり、カミーユはしばらく押し黙った。                                                   
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加