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どうして飛び降り自殺をする人がわざわざ靴を脱ぐのか、私にはその理由はわからない。だが、なんとなく見よう見まねで自分の靴を揃えてみると、少し心が落ち着きながらも、自分の決断がより強固なものになった気がした。
地面に叩きつけられる自分を想像してみる。これだけ高い場所からであれば、苦しまずに即死することができるだろう。下で歩いている多くの人はここからだと豆粒みたいに小さく見え、自動車やバスはほとんどミニカーだった。悲惨な飛び降り死体を目撃してしまう人には申し訳ないが、そんなことは気にしていられない。
屋上の柵を乗り越えてビルの淵に立つ。その程度のことで自分の命を捨てるのかと叱られるほどの理由しか持っていないが、今の私には死以外の選択肢は思い浮かばなかった。とにかく疲れていた。
もういいや。未練なんてないのだから、考えるのはやめて早く楽になろう。そう思って宙に身を投げ出そうと思った時、二、三十メートルほど前方の人影が目に入り、私は飛び降りるのを中断させた。
向かいに、ちょうどここと同じ高さくらいのビルがある。男がその屋上で、私と同じように柵を乗り越え、今にも飛び降りようとしていたのだった。
それを見て私は咄嗟に、止めなければ、と思った。
「待って」
大声で叫ぶと、今まさに体を宙に投げ出すところで男の顔がこちらを見た。
間に合わなかったようだ。男の体はもう、ビルの淵から離れてしまっていた。スローモーションに見えるほどふわっと男の体が浮き、恐ろしい速度の落下が始まろうとしている。
「待って」
もう一度叫び、気づけば私も自分の体を宙に投げ出していた。私はそのまま必死に彼の元まで行こうとした。そんなことができるわけないのに、彼の死を今からでも止めたかったからだ。
すると不思議なことに、私の体はいつまでも空中に留まっており、つまり浮遊しているのだった。あれ? もしかしたらこのまま空を飛んで彼の元まで行けるのではないか。見ると、なんと彼の体も空中に浮いていた。
私の体は、彼の元へ行きたいという気持ちと共に、横すべりするようにスーッと空中を移動した。空を飛んでいる。彼の体もこちら側へ向かってきている。私たちはちょうどお互いが飛び降りようとしていたビルとビルの真ん中の辺りで落ち合った。
私たちは宙に浮かんだままで固く抱き合った。
「死なないで」
と、私は彼に言った。
「俺も、同じ気持ちだったんだ」
彼は優しくそう言った。
そういえば私は、さっきまで自殺をしようとしていたのだなと思い出す。お互いが自分の死をほったらかしにして、他人の死を止めようとしていたのだ。相手の自殺を止めようとする強い気持ちによって浮遊能力に目覚めたのかもしれない。
「ねえ、私たち、これからどうすればいいんだろう?」
「とりあえず、自殺はいったんやめておこうか」
私が飛び降りようとしていたビルの屋上まで、抱き合ったままでスーッと戻っていく。
「人間、その気になればなんだってできるのかもね。なんだか、私、まだ死ななくてもいいような気がしてきた」
屋上に降り立ったところで、私はそう言った。仕事も恋愛も失敗続きで、実家の家族ともうまく行かず、自殺しか道がないと考えていた私は、不思議ともう死にたいとは思っていなかった。
「一緒に、生きようか」
と彼がそう言ってきた。
それから数年後、私たちの子供が生まれた。男の子である。浮遊能力は遺伝していたようで、物心がついた頃には自在に宙を泳げるようになっていた。
私たちは三人でよく空中の散歩にいく。夕暮れ時に三人で手を繋ぎながら空を歩いていると、なんとも言えない幸福感に包まれる。
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