田中の憂鬱(現代へお帰りなさい)

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 女子達は手を振り、店を後にした。斉藤君とパーカー君が静かに酒を飲む。俺も大きく伸びをした。橋本が溜息をつく。 「俺達、性格が悪いよな」 「仕方無い。こんなに愉快な合コンに遭遇することもなかなか無いよ」 「おい、あんまり合コンとか言うな。彼らに聞こえたら悪いだろ」  またまたチラリと確認する。二人は疲れきっているようで、背もたれに寄りかかり店のテレビを眺めていた。パーカー君は椅子の前足を上げてゆらゆら揺れている。バランスを崩さないように気を付けてね。転ぶときっと痛いから。  俺達も帰るか、とガタイのいい二人組が立ち上がった。次の瞬間、あの、と綿貫が叫んだ。うわっ、と俺は橋本の方に体を寄せる。驚いたパーカー君が案の定というべきか、引っ繰り返った。何かごめん。  綿貫は二人組の内、一人に向かって大声をあげた。 「サイン、貰えませんでしょうか」  店中が静まり返った。声をかけられた当人も目を丸くしている。店員さんすら注意をしようとしない。いや、この空気の中、動くことは出来なかろう。仕方無い。綿貫の頭を一発叩く。 「声がデカい」  そしてほうぼうに向けて、すみません、と俺は頭を下げた。 「こいつ、結構飲んじゃっていて」  本当は全然飲んでいないが、嘘も方便。酔っ払っているからごめんなさい、と言えば大抵の酔っ払いは納得する。何故なら皆、似たような経験や気持ちを持っているから。目論見通り、店の空気はすぐ元に戻った。 「何やってんだバカ」  俺を無視して、お願いします、と綿貫はガタイさんその一に向けて直角に礼をした。いえ、と彼は手を振る。ガタイさんその二は椅子に座り直し、頬杖をついた。見守っていますよ、って感じを醸し出している。綿貫は顔を上げて切り出した。 「プロ野球選手の吉波さんですよね。俺、貴方の大ファンなんです。二年前にプロ入りしてから、何回も試合を現地で観ました。ずっと応援していたので、今日後ろにいらっしゃると気付いてからもうずっと声をかけるタイミングを見計らっていて。ごめんなさい、お話していることをちょこちょこ盗み聞きしてしまいました。いけないとわかっていてもどうしてもやめられなかった」  嘘を付け。ちょこちょこどころかずっと聞き耳を立てていたくせによく言うわ。ガタイさんその一、もとい吉波選手はありがとう、と頭を掻いた。 「でも俺、一軍での出場は一回も無いけど」 「二軍戦、電車で二時間かけて観に行っています」  鼻息も荒く綿貫はスマートフォンを取り出した。吉波選手に画面を見せ付ける。おぉ、と彼は目を見開いた。 「試合の写真じゃん。マジで来てくれているんだ」 「これ、全部吉波選手の写真です。いっぱい撮りました。ほら、スクロールしても貴方ばかり」  ストーカーか。若しくは怖い話かよ。撮られた本人も明らかに戸惑っていた。 「え、全部? 全部俺? 一軍に出ている選手もいるのに、俺だけ?」 「何枚かは他の人も紛れていますが、二軍の試合は基本的に貴方だけ撮っています。大好きですから」  情熱的な告白だ。そっと綿貫の顔を覗き込む。目に涙を浮かべていた。そんなに好きだったんだ。ありがとう、と吉波選手は絞り出した。でも顔が引き攣っている。これからしばらくは、試合に出る度に綿貫がいないか探すことになるかも知れない。成績が下降しないといいですね。 「それで、サインをいただいてもよろしいでしょうか」  震える声で綿貫が再度問うた。あぁ、と吉波選手が思い出す。 「いいよ。何処に書けばいい?」  綿貫は手帳とサインペンを引っ張り出し、またも直角の礼を繰り出した。 「ここにお願いしますっ」  吉波選手はすぐにサインをしてくれた。ありがとうございます、とアホが叫ぶ。お客さん達は綿貫をそういう酔っ払いだと認識してくれたらしい。ちらほらこちらを見る人はいるがさっきみたいに空気が凍ることは無かった。それにしても、と吉波選手が綿貫に声をかける。 「俺のどこがそんなに好きなの? それこそ一軍での出場経験も無いし、打率も二軍で二割ちょっとだし、ホームランも打てるタイプじゃないしさ。自分で言うのもなんだけど、地味な選手だよ」  綿貫が今度は真っ直ぐに背筋を伸ばした。中学の卒業式で校長から証書を貰う時ですら、あんなにピンとはしていなかった。 「吉波選手のバランスの良いプレイヤーぶりが好きです。足が速い。登録は内野手ですが今年からは外野にも挑戦している。小技も出来るしケースに応じて自分の仕事をきちんとこなせる。地味なんかじゃありません。ユーティリティープレイヤーとして、俺は貴方が大好きです」  吉波選手が頬を掻いた。こちらも顔を赤くしている。告白成立、カップル誕生。なんちゃって。 「ありがとう。そんなに好かれて嬉しいよ。むしろプレッシャーがかかるレベルだ」 「俺なんかのプレッシャーなんて跳ね飛ばしてください」 「俺なんか、なんて言うなよ。この店でさ、君が大声を出して皆がこっちを向いただろ。でも俺に気付く人は一人もいなかった。所詮、そのくらいの知名度なんだよ」  そうか、言われてみればお客さんは綿貫に注目すれども吉波選手を見付けて騒ぐ人はいなかった。この店に限って言えば、彼は綿貫より目立たなかったのだ。 「でもいつか、皆が君みたいに吉波のファンですって申し出てくれるようになりたい。だから頑張るよ。うん、地味じゃなくてバランスの良いユーティリティープレイヤーとしてね。ありがとう。自分の現状が改めて確認出来た。やる気も出て来た。いつか一軍の球場で、写真をいっぱい撮らせるから楽しみにしていて」  そうして吉波選手がごっつい右手を差し出した。はい、と裏返った声で叫び綿貫が両手で握り返す。 「じゃあね」  吉波選手が出口へ向かう。頑張って下さい、と綿貫は最後にもう一度、直角に頭を下げた。見納めなんだから顔は上げた方がいいんじゃないか。 「すみません、お騒がせして」  立ち上がったガタイさんその二に声をかける。いえ、と彼は微笑み返してくれた。 「あいつも嬉しかったと思いますよ。ありがとうございます」  そうしてガタイのいい二人は店を出た。どうでもいいけど貴方は誰なんだ、ガタイさんその二。  綿貫はすっかり氷の溶け切った酒を一気に飲み干した。おかわりを店員さんに頼むと、貰ったサインをしげしげと眺める。そしておしぼりで目元を拭った。 「お前、吉波選手の話を聞いていたからずっと静かだったのか」  俺の言葉に、あぁ、と頷いた。 「二軍の練習のことやプロのレベル、彼の考え方や自信を失い掛けていることまで聞けた。そしてプライベートでは最近バックギャモンに嵌っているそうだ。こんなこと、ファンだって誰も知らないぞ」 「いや練習しろよ。吉波選手も、一緒にバックギャモンで遊んでいる奴も」 「アプリでやっているってさ」 「完全に暇潰しじゃねぇか」 「でも綿貫の熱意に発奮したら、一軍出場も有り得るかもよ。そうしたら将来、一人のファンのおかげで目が覚めました、ってインタビューとかで答えてくれるかもね」  橋本にそう言われて綿貫は再びおしぼりで目元を拭った。そうなるといいな、とくぐもった声が聞こえる。憧れる人の人生の一部になるような感じか。込み上げるものがあるのもわからんでもない。良かったな、と肩を叩く。 「ところでさ。さっきからずっとスマホがぶいぶい震えて鬱陶しかったんだけど、お前ら何かしてた?」  今更気付いてももう遅い。見たらわかる、と短く答える。俺と橋本のやり取りを読み、綿貫は首を傾げた。 「何これ」 「その内トイレから出て来るだろうよ。橋本、席を変わってくれ。何か疲れちった」  橋本は快く応じてくれた。綿貫の相手を任せる。勿論、斉藤君とパーカー君はまだいるので詳しいことは話せない。だから余計に説明が面倒なので、橋本に押し付けた。
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