86人が本棚に入れています
本棚に追加
どうしよう。お母さんが怖い。いつも怖いのだけれど、こんなに怒っているお母さんなんて見たことがない。でも、今私が話しかけたらお母さんの怒りが爆弾みたいに爆発してしまいそうだ。息が苦しい。この場から、逃げたい。
そうやって一人でうろたえていると、やがてお母さんが椅子に座った。
「……去年決まったことを今更私一人がどうこう言ったって、変わらないってことね」
「そういうこと……役立たずでごめん」
あんず先生がお母さんに頭をさげる。だが、すぐにうつむいたお母さんはあんず先生が頭をさげたところも見ていなさそうだ。
なんて重苦しい空気なのだろうか。あんず先生に助けを求めると、あんず先生は「ごめんね」と口だけ動かして私に謝った。
「例年通り保護者の方も夕食と夜のレクリエーションに参加できるから、紫ちゃんも参加を検討してみて」
「……わかったわ。怒鳴ってごめん。あなたも仕事なのに」
「いいよ。だって、普通はそうなるもの……じゃあ、私、そろそろ戻るから。貴重な時間を、ありがとうございました」
そう言って、あんず先生は椅子から立ちあがって私たちに一礼した。
帰ろうとするあんず先生を玄関まで見送る。お母さんもついてきたが、先生が玄関の扉を閉めるまで無言だった。さっきまであれだけ怒っていたのに、今のお母さんはぼんやりとしていて、魂もどこかに飛んでいた。
「お母さん……大丈夫?」
声をかけると、お母さんはハッと我に返った。そして私に「悪かったわ」と一言謝った。
「夕食の準備をするから、それまで宿題をやってて」
そう言ってお母さんは私に背中を向ける。なんてことない、いつものお母さんとの会話だ。だが、台所で料理を始めるお母さんは追いつめられたような顔をしており、とても話しかけられる雰囲気ではなかった。
さっきの話は聞かないほうがいい。ふれないほうがいいんだ。
そうやって自分に言い聞かせて、お母さんとあんず先生のやり取りを胸の中にしまいこんだ。
そのかいあってか、すぐにお母さんも普段の彼女に戻ったし、夏合宿の話も出てこなかった。
ただ、あんず先生が置いていった『夏合宿のお知らせ』のプリントは、お母さんの手によって無残に捨てられていた。
最初のコメントを投稿しよう!