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電車やバスを乗り継いで片道一時間の隣の市から村瀬がやってきたのは、秋晴れの涼しい午後だった。
「座って。お茶と羊羹あるよ」
客間にしている座敷の、座卓の前に並べて坂木が誘うと、「いっしょですね」と村瀬は笑う。
「いっしょって?」
「初めてここに来たとき、出してくれたものといっしょ」
「そうだっけ? さすがの観察眼と記憶力だ、刑事さん。……あ、いや。えーと、元刑事さん」
村瀬は笑っていた。苦しそうではなく、ただ少し、困っていた。
縁側に出て、庭に積もった枯葉を見ながら、二人で羊羹を食べる。空は高く、綿雲が雑草伸び放題の地面に影を落としている。
羊羹を飲み下して、村瀬がつぶやいた。
「掃き掃除という概念はないんですか?」
「風流かなって」
「紅葉でもしてたら、ですがねえ」
他愛ない話ばかりだ。
村瀬はやつれていた。青白い手の甲に変な白い筋が浮かんでいた。目の端が乾き、よく伏し目がちになる。覇気がない。変わったところを挙げ連ねて、坂木は茶を飲む。
「父のことは、今でも言われます」
ぽつりと村瀬が言った。
ネットで誹謗中傷する書きこみをされたり(春彦に対してだけでなく、村瀬に対してもだ)、あとをつけられたり、近所の人間に避けられているという。
「『殺人鬼の息子』『悪魔の息子』『死んで詫びろ』という書きこみもありました。『警察官のくせに』と」
村瀬は茶をすすり、枯葉の庭を見ていた。ただ単に枯葉が落ちただけの庭はむさくるしい。坂木は村瀬の横顔を見ている。
村瀬はまた話し始めた。
「いつの間にか、そんな言葉にも慣れている自分がいた。父はおれが生まれたときからそうでした。いつか人も殺すだろうと思っていた。その人間が自分にとって躓きの石になるなら、躊躇なく。そして、おれもあの人の息子だから、いつか父のようになるかもしれないと怯えていた。父から母を護るのがおれの役目だった。でも、母は死んだし、父は後悔も反省もしていないでしょう。おれにできることはなかった」
村瀬は真正面を向き、ひたすら庭を見ている。顎が震えていた。
立ち上がった坂木が、そっと村瀬に近寄った。同じようにむさくるしい庭を見ながら。
「せいちゃんは、できることをいっぱいしたよ。お母さんを大事に思った。お父さんを憎んだ。それで十分だよ」
村瀬はうつむいた。その喉も、顎と同じで震えていた。
「もっとできたんです。父を捕まえて法の裁きを受けさせ、母に笑ってもらいたかった。母は後悔していた。父と出会った時間を。強くいられなかった自分自身を。おれが普通に育たなかったことを」
坂木は腕を回し、小さく丸まった体を抱きしめる。
「せいちゃんは立派な人間になった。人の痛みがわかり、弱きを助ける立派な人になったよ。お父さんはせいちゃんじゃなくても、別の誰かが裁くだろう。それとも、せいちゃんは……」
腕の中で、放心した顔を覗きこんだ。
「せいちゃんは、自分でお父さんを裁きたかったのか? 例えば……殺す、とか?」
村瀬は無言だった。無言のまま立ちあがり、庭に降りた。
「父を裁かないと、おれの闇は消えない」
「せいちゃん」
「おれの中には闇がいっぱい詰まっています。ここも、ここも、ここも、ここも闇だ。だからおれは――」
坂木が村瀬を後ろから抱き寄せる。バランスを崩した彼が後ろに倒れると、坂木が腿で受け止めた。
「人間椅子」
縁側で、村瀬を膝の上に乗せて、ぎゅっと抱きしめて坂木がささやく。それから、
「せいちゃんの闇って、愛しいなあ」
そう微笑むと、村瀬は大きな手の甲に額を押しつけて泣いた。
震える背中を、坂木は黙ってさすった。膝の上があたたかい。二人はそうやって、ずっとくっついたままでいた。
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