作家、若き刑事と出会う

2/4
前へ
/36ページ
次へ
「麻里亜はほとんどなにも話さなかったよ。おれはただいっしょにいただけだ」  坂木が首を振ると、村瀬はかすかに微笑んだ。  笑顔、けっこう可愛いなあと、坂木は気がつく。生前の麻里亜の言葉を思い出した。 「わたしの息子、ナイトみたいだけど、笑顔がそれは可愛いの」  ――まずい。  また涙をぬぐう。村瀬は微笑んだまま言った。 「ただいっしょにいてくれたことが、息子のおれからしたら有難いです。おれは大学のときは一人暮らしで、家にはほとんど帰らなかったし、就職したら仕事が忙しくて。そばにはいられなかった。交番勤務のときも寮に入っていたし……」 「は? 交番勤務?」  目を丸くした坂木に、村瀬も少し驚く。母が言っていると思い込んでいたのだろう。 「村瀬さんはお巡りさんなのか?」 「今は兵庫県警本部の刑事課に所属する刑事です」 「うちの県の刑事さん……!? 本物、初めて見た」 「ふつうの顔でしょう?」 「いや、ものすごいイケメンだけど」 「冗談ですね」  にこっと笑うその顔の美しさに、息ができなくなりそうだ。「いやいやどこが」と食い気味になる。 「あ、でもさすが麻里亜の息子さんってかんじだな。麻里亜もものすごい美人だったもんなー。え、お父さんも?」 「父も顔はよかったと思います。顔だけは」  やはり父子に確執があると見た。坂木は羊羹を口に入れ、もぎゅもぎゅと食みながら小首を傾げた。 「へー。なるほどなあ。麻里亜の息子さんは刑事さんなのか。全然聞いてなかった」 「母は秘密主義者なところがありましたから」 「あ、ちなみにおれのことは、なにか言ってた?」  どきどきしながら尋ねると、村瀬は鋭いまなじりを和らげた。 「お人好しの優しい人、と言ってました」 「お人好しかあ。そのこと、いつも麻里亜に注意されてた。いつか莫大な借金を背負うことになるわよ、って」  困った顔で笑う坂木に、村瀬は湯呑に手を伸ばす。一口飲み、言った。 「母は、素晴らしい本を書く人だとも言っていました。わたし、倫太郎の本が大好きなの、って。公演に出掛けるときはいつも持っていく。そして、お気に入りの本と眠るの、って」  たしかに、麻里亜が亡くなったロンドンのホテルの、彼女が遺した荷物の中から坂木が書いた『愛と窃盗』が出てきた。持っていた本はそれ一冊だった。 「麻里亜……っ」  今度は本当に泣いてしまった。眼鏡を外し、手の甲を目に押し当てる。村瀬は坂木が落ち着くまで待っていた。静かに言った。 「……坂木さん。遺産の件は、また考えておいてください。今日はもう一つ、ご相談したいことがあって来ました」 「相談したいこと……?」  ポロシャツの裾で涙を拭いながら繰り返すと、村瀬はスーツの内ポケットから封筒を取り出した。すっと坂木の前に置く。 「これは?」 「母が生前、おれに宛てた手紙です」  封筒を手にし、便箋を取りだす村瀬。三枚あるうちの三枚目までめくり、差し出した。 「読んでください。ここ」  老眼なのでなかなかピントが合わない。なんとか手紙を読む。 「……それから、もし、万が一にでもわたしの身になにかあったら、清路は倫太郎といっしょに住んであげてね。倫太郎、すごくすごく寂しがり屋だから。お願いね」  麻里亜の直筆の字。それだけで胸がいっぱいだが、その内容。  手紙から顔を上げ、目を瞬く。 「きみとおれがいっしょに住むことを希望してたのか? 麻里亜が?」 「ええ」  手紙を畳みながら、村瀬はギリシャ彫刻のような顔でうなずいた。 「自分になにかあったら、あなたが寂しがるだろうからいっしょに住んであげてほしい、と」 「え、いや、いきなりそんなこと言われても……」  座卓に乗せた手紙を見つめ、坂木は鼻水をすすった。麻里亜の字だ、麻里亜の字だ、と思うと、涙が止まらない。ごしごしと目を拭いながら、 「……『もし、万が一にでもわたしの身になにかあったら』……って、本当にそうなっちゃったな。早すぎるよなぁ」  泣き笑いになる坂木に、村瀬は無言だ。坂木は自分に言い聞かせるように言った。 「おれ、寂しくないよ。大丈夫だよ」 「さっきあんなに泣いていたじゃないですか」 「いや、あれはその」 「おれも寂しいんです。あまりに早い、予期しない別れでしたから」  ぽつりとつぶやいた村瀬の強張った顔を、坂木は思わず見つめた。  ――そうか。寂しいよな。この子も。 「あのさ……村瀬さんは、今何歳?」 「二十七です」 「じゃあ、麻里亜が二十歳のときの子どもだったんだな。おれ、四十六歳なんだ。お父さん、にはなれないけど、さ……」  なんでこんなこと口走っているんだろう。我ながら不思議だった。坂木は黒い瞳から目を反らす。 「いや、その。いっしょに暮らすって、大変だよな。しかも、会ったばかりの人と暮らすなんてよけい大変だ。ゴミ出しの順番とか決めなきゃいけないし、料理の分担とか。それに、ほら、いろいろと面倒もあるかもしれないし……」  口を真一文字に結び、坂木を見つめる村瀬。表情のない顔の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。 「……じゃあ、これも考えていてください。よろしくお願いします」  村瀬は頭を下げる。清潔なつむじが、なぜか脳裏に焼き付いた。 「う、うん。わかった。ありがとう」  村瀬はまた自分の座っていた場所に戻ると、もう一度頭を下げ、腰を上げた。  来たときと同じように静かに、姿勢よく、青年は帰っていった。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

80人が本棚に入れています
本棚に追加