堕ちた天使

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○  夕焼けの中だった。空がオレンジと、緑と、紫に染まっている。村瀬は家に置いていた荷物を掴むままにバッグの中に投げ込んで、今はバッグがぱんぱんに膨れている。  顔を上げて、村瀬は微笑む。坂木も微笑み返したが、表情は暗い。 「これからどうするんだ?」 「知り合いを頼ります。来てもいい、って言ってくれてるので」 「秘書になってくれるって約束は?」 「おれなんかよりもっと、いい人がいます。先生の次回作、楽しみにしています。……お体に気をつけて」  そう言って、村瀬は手を差し出した。  坂木が握ると、村瀬は笑った。 「どうぞ、お元気で」 「せいちゃんも。元気でな」  村瀬は原付を押して、通りの角まで進んだ。それから後は跨って、走り去っていった。  振り向いた坂木は、日射しでオレンジに染まる家に中に戻った。  ――麻里亜も、せいちゃんも、誰もいない。  誰もいないっていうのはこういうことなんだと思った。 ○  晃塵会の幹部数名が取り調べを受けていることを、坂木はテレビのニュースで知った。  なんでも、イギリスのある財閥の御曹司、殺害の疑いでだそうだ。春彦が始末したという人物のことだろう。エルザ・リッチモンド率いるロンドン警視庁も捜査に乗り出している。国際問題に発展するだろう。  春彦さんがすべてを吐いたのだと坂木は思う。「これで晃塵会、解体か!?」と世間は湧いていたが、話はそう簡単なもんじゃないだろうと、坂木は冷静に事の成り行きを見ていた。 ○  秋になったころ、村瀬が去ってから初めて、彼からメールが入った。  今は高校時代の恋人、化学の教師といっしょに住んでいるという。  メールには、「あなたのことが懐かしい」と書かれていた。  午後十時過ぎ。思わず電話した。  長いコール音のあと、村瀬が出てくれた。 「はい」  響いた声が低く穏やかで、坂木の胸が苦しくなる。せいちゃんの声を耳は求めていたんだな、と思った。それほど、村瀬の声は坂木の耳朶によく馴染む。 「……せいちゃん、久しぶりだな」 「倫太郎さん。お久しぶりです」  以前と変わったところはないように、坂木には思えた。 「同居人の先生は?」 「今、風呂に入ってます」 「そっちの暮らしはどうだ? 仕事はなにしてる?」  なにも、と村瀬は乾いた声で笑った。 「ずっと家にいます。そのせいで太りました」 「そっか。高校の先生……、名前は?」 「遠野(とおの)です。遠野孝太(こうた)」 「遠野先生も、せいちゃんのこと心配してるだろ」  くっ、と喉が鳴る音がした。雑音が入って、クリアになり、かすかな呼吸の音がする。 「最初は心配してくれていました。でも先生、『おまえはお荷物だ』って。『もう、面倒は見えない』って言われて……」  泣いているのか、息が荒い。坂木はスマートフォンに耳をくっつけ、どんな些細な感情も逃すまいとする。 「先生は、せいちゃんのこと……」 「前までは、いっしょに職探しにも付き合ってくれてたのに……今はただ、仕事から帰った先生がおれを抱くだけです」 「せいちゃん」  なんて言っていいか、わからない。それでも言葉が出たのだ。 「おれんち、おいで。先生に言って、外泊させてもらおう」  荒い息が続いている。その後ろから、 「村瀬、風呂空いたぞ」という声が聞こえてきた。
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