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飲み残しのお茶と羊羹を台所に下げる。台所はむっとする暑さだ。蚊が一匹、飛んでいる。手つかずの羊羹。ラップをしながら、坂木は亡くなった妻に思いをはせた。
――遺産に関しては遺言はなかったそうだけど、あの手紙は、まあ言ってみれば遺言だよな。麻里亜は息子さんとおれに、いっしょに住んでほしかったんだな。だったら生きてるときに引き合わせてくれたらよかったのに。
――むりだよ。だって、他人だろ? むりだよ。
台所の椅子に腰を下ろし、煙草を吸う。メンソールを効かせた煙草で、吸うと少し気持ちが楽になる。
「おれと麻里亜は夫婦だけど、村瀬さんはおれの子どもじゃないし。それでも麻里亜、きみはおれと村瀬さんにいっしょに住んでほしい? どうかな?」
虚空に向かって、妻の名前をつぶやいた。豊かに波打つ長い髪。そばかすの浮いた肌。大きな灰色の瞳。豊かな胸やくびれた腰のことも思いだす。
胸の中の麻里亜が笑って、「お願いね」と言った。
「倫太郎、すごくすごく寂しがり屋だから」
換気扇に向かって、坂木は紫煙を吐いた。
「……確かに、おれは寂しがり屋だよ。麻里亜」
椅子の背に広く大きな背中をあずけ、ぼんやりと虚空を見上げた。
「……村瀬さんも、寂しがってるのかな。そうだよな。たった一人のお母さんが亡くなって、父親は行方不明だもんな。一人っ子だそうだし、まだ二十七歳だし。……そうだな。なあ、麻里亜。電話してみる」
椅子から立ちあがり、テーブルに置いたスマートフォンを手に取った。
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そして一週間後の八月十日、土曜日。
村瀬が引っ越してきた。
黒のバックパックを背負い、ボストンバッグをひとつ持って、原付で。
原付から降りると、玄関の前でヘルメットを脱ぎ、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします、坂木さん」
「ん、よろしく。あがって」
ボストンバッグを受けとる。ずっしりと重い。
坂木の自宅は、築三十五年の家を買い取ってリフォームしたものだ。広い玄関をあがると、右手に階段、左手に座敷がある。奥がキッチンと風呂場、トイレ。二階が坂木の書斎と寝室、そして麻里亜の部屋があった。それに、もう一部屋。倉庫になっている部屋だ。
その部屋に、坂木は麻里亜の私物を移動させた。だが、完全にすべてを倉庫に移すことはできなかった。麻里亜の痕跡を麻里亜の部屋に残したかった。使う人がいなくなったから、だから物を普段は使わない場所――倉庫に移動させる。それはごく当たり前のことのように思えるけれど、今の坂木にとっては当たり前ではない。そうすることで、大切な人が「亡き人」になったという現実を認めたくなかったのだ。
村瀬を麻里亜の部屋に案内し、坂木はぼそぼそとつぶやいた。
「ごめん、お母さんの私物がまだ残ってるけど」
ロールトップのデスクや、ドレッサー。造りつけのクローゼットの中に服は残っていない。デスクの上には坂木と撮った写真、村瀬が子どものころの写真が飾られている。
部屋を見回す村瀬に向かって、坂木が言った。
「麻里亜はおれの部屋で寝てたから、ベッド、なかったんで取り急ぎ買った。それでいいか?」
その言葉に促され、村瀬はそっとベッドに座ってみた。ヘッドボードのない、マットレスに脚がついているタイプのシンプルな白いベッドだ。こくりとうなずく。
「わざわざ、ありがとうございます。お金は……」
「いいって。きみがうちに来てくれたお礼。ありがとう」
坂木が笑うと、村瀬は視線を伏せ、ちょっと赤くなった。
――あれ? 可愛いんだけど。
若い子はキュートでいいなあ、なんて物見遊山的おじさん目線の坂木を前に村瀬は顔を上げ、にこっと笑う。
「ありがとうございます、坂木さん」
「ん。あのさ、呼び方考えないとな」
「呼び方、ですか?」
「うん。いっしょに住むのに『坂木さん』『村瀬さん』は他人行儀だろ。まあ、他人ではあるけど。おれはもっとフランクに呼びたいな。例えば……」
「例えば?」
じっと見つめてくる目に、背中に冷や汗が浮かんだ。
――あれ、可愛いと思ったけど、やっぱり騎士が間合いを詰める目だ。下手なことを言うと斬られる?
「えっと……『せいちゃん』とか」
「せいちゃんはやめてください」
「じゃあ、清路君」
「それでお願いします」
「わかった。おれは好きに呼んで」
「……倫太郎さん、とか?」
「ん、それでいい」
にこっと笑う坂木に、村瀬は視線を伏せた。
デスクに置かれたCDプレイヤーの電源を意味もなく付けたり消したりしながら、坂木が言った。
「清路って、きれいな名前だな。清い路(みち)って書くんだろ?」
もらった名刺に書いていたのだ。
「母の願いです。清らかな人生を歩んでほしい、と」
「たしかに、刑事やってたら清らかな路を歩けるな」
のほほんと言った坂木に、村瀬はかすかに笑った。
「刑事にもいろいろいますけどね」
「ふうん? あ、音楽聴く? 麻里亜のCD、きみも聴くかもしれないって思って残しておいたんだ」
「……ほとんどボブ・ディランだ」
「好きだったからな」
「おれも、ディランのCDを持ってきました。ボストンバッグに入ってます」
思わず振り向き、坂木はベッドの足元に置かれたボストンバッグを見つめた。
「そっか。清路君もディランが好きなのか。おれも好き。麻里亜のおかげで聴くようになって、人生変わった」
電源の入ったCDプレイヤーに手を這わせる。五年前に、麻里亜といっしょに買ったCDプレイヤー。電源を入れると、ボタンが黄緑に光る。しゃべってるみたいで可愛い、と麻里亜が言っていた。
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