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休日デートは上手くいかない
八月十七日。
坂木が村瀬と同居をはじめて、一週間が経った。
「おはよう、清路君ー。なんだかいい匂いがするな」
目をごしごしと擦りながら台所に入ってきた坂木は、食卓テーブルについている村瀬と目が合った。
「おはようございます」
軽く頭を下げる村瀬。Tシャツにスウェットでもかっこいい人は絵になるなあ、とひとしきり感心する坂木だった。自分はぼりぼりと腹を掻いている。Tシャツがめくれて、たるみはじめた腹が剥き出しだ。
味噌汁の香りがする。いい匂いの正体はこれらしい。坂木が蓋を開けて鍋の中を覗きこむと、茄子とオクラの味噌汁だった。
「せいちゃん、一週間前に比べて、味噌汁のレパートリーが劇的に増えたな。本買ってたよな?」
冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取りだしながら言った坂木に、村瀬は視線を向けない。目は手元の紙に向かっている。
「『味噌汁の達人』です。料理は得意ではありません。簡単なものから攻めようかと」
「簡単なものでも、味噌汁があると食事がぐっと豊かになる。麻里亜も味噌汁、上手に作ったんだ」
「母の味は今でも覚えています。……せいちゃんはやめてください」
「ごめん、清路君。なに読んでるんだ? 英語?」
クリップで留められたA4の白い紙に英字がずらりと並んでいる。村瀬が視線を上げた。
見つめられて、坂木はちょっとぎくっとする。今でも、この剃刀の刃みたいな眼光に慣れたとは言えない。だからギャップで、眼差しが和らいだときは本当に可愛く見えた(不審な顔をされそうなので、口に出して言うつもりはなかったが)。
村瀬は鋭い目で坂木を見る。静かに言った。
「イギリスの警察から送られてきた、母の死の所見です」
「え……、なんて?」
身を乗り出すと、村瀬は指で紙の真ん中あたりをなぞった。
「やはり、階段から足を滑らせたことが原因の死だった、と」
「麻里亜、ダンサーで体のキレもよかったのにな。やっぱり飲んでたからか」
「そうですね。多量のアルコールが検出されたと書かれていました」
「麻里亜……」
眼鏡を押しあげ、坂木が目を擦る。じわわ、と涙がわいてきた。村瀬の表情は変わらないが、声はぐっと気遣うものに変化する。
「すみません、倫太郎さん。つらいことを思い出させて」
「いや、大丈夫。清路君は強いな。悲しくはならないのか?」
村瀬の顔がわずかに強張った。
「悲しくは、なります。でも表に出ないだけです」
「そっか。そうだよな」
「……そういうところ、職場でも気味悪がられます。『刑事だから冷静なのはいいが、実の母親が死んだのにあの通りとは。冷血だな』って。同僚が言ってるのを聞いたんです」
ほとんど表情のない顔に、鋭い目。悪魔よけの人形みたいに見える。しかしその無表情が、心の内を聞くと坂木にはいじらしく思えた。きっと、必死で耐えているのだろう。そう思い、うんうんとうなずく。
「そうかあ。せいちゃんも、ほんとは悲しいんだもんな。そんなやつのこと、気にするなよ。おれがわかってるからな」
「……はい」
ふっと表情を緩める村瀬。臨戦態勢を解いた騎士にあるのは美しさだけだ。
その穏やかな表情に、坂木は満足感を覚えた。おれに父性なんてあったんだ。それが村瀬と暮らすようになって発見したことだった。
ふいに、麻里亜が生前に言っていたことを思い出す。彼女は、「子どもは一度で懲りたの」と笑っていた。
今、清路君を前にして、麻里亜が子どもを設けたことを後悔するような、そんな子には見えないけれど――と、坂木は思う。ただ、麻里亜の言葉に従い、坂木はきちっと避妊していた。自分自身、いい父親にはなれないだろうと思っていた。それが、村瀬が現れ、今父性がむくむくと。人生っておもしろいなーなんて、物見遊山的気分で思う坂木である。
村瀬は書類を折り畳んで封筒にしまうと、坂木の目を見つめた。
「倫太郎さん。メシ食ったら、いっしょに映画に行きませんか?」
「映画か。でも、今はちょっと楽しめる気分じゃないかな」
すっぱり断ると、村瀬の顔が曇る。
「そうですよね。母さんを亡くしたから……」
「うん。楽しいと感じる気持ちが薄くなっちゃってな。麻里亜のことばっかり考えてる」
麦茶を飲みながら言った坂木に、ふと村瀬が寂しそうな顔をした。目を伏せ、テーブルを見るともなく見ている。
「やっぱりおれはおかしいのかもしれませんね。母が亡くなっているのに映画に行きたい、なんて」
「いや、そうやって乗り越えようとしてるんだよ、せいちゃんは」
麻里亜が亡くなって半年経つ。坂木自身も、少しずつその死を見つめられるようになっていた。
「映画には行けないけど、出掛けるか? 麻里亜といっしょによく行ってたカフェがあるんだ。行こう。行って、いろいろ話したいな。麻里亜の話とか、せいちゃんのこととか」
「そうですね。じゃあ、カフェに行きましょう。味噌汁、あっためてきます」
いそいそとコンロに向かう一八〇センチの背中が、なんだかとても健気で、いじらしく見えた坂木だった。
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