お人好し作家と皆殺しの天使

作家、若き刑事と出会う

　内縁の妻が死んだ。

「いい芸術家になるためには飢える必要はない。愛と深い洞察力と強い見解を持っていればいいんだ」
　今も第一線で活躍するアメリカの天才ミュージシャン、ボブ・ディランのこんな言葉を教えてくれたのが、内縁の妻、村瀬麻里亜（むらせまりあ）だった。
　当時、麻里亜は大型書店のサイン会会場にいて、サインをしてもらおうと坂木倫太郎（さかきりんたろう）の書いた新刊を抱きしめ、列に並んでいたのだ。
　スランプに陥って苦しんでいた坂木は、サイン会で出会った麻里亜にこのボブ・ディランの言葉を教えてもらい、導かれるように今まで一度も聴いたことのなかったディランの曲を聴いた。
　そして一か月後、ディランが歳を重ねてから発表したアルバム、『Love And Theft』に着想を得て、『愛と窃盗』というタイトルの長編小説を書いた。
　六年前のことだ。
　『愛と窃盗』は売れなかったが、それでもスランプから抜け出すことができた。
　麻里亜は当時、単に坂木の本の愛読者だったが、それから付き合いはじめ、妻と呼ぶにふさわしい関係になった。
　六年間、愛を育んできたのだ。今は、亡くなった妻への思いでいっぱいだ。
　だからもう、いいのだ。相続とか、遺産とかは。

○

　竹のコースターに載せたガラスの湯呑に、よく冷えた麦茶を注いで出す。お茶請けはデパートで買った、某有名和菓子屋の羊羹だ。エアコンの涼やかな風が和室に満ちている。
　座卓の前に座った青年は、坂木に向かってぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
　そう言ってから上げた顔は、きりりとしている。ものすごい男前なのだ。真っ黒の短髪の、前髪は眉よりも短い。驚くほど形のいい眉（きっと生まれつきそうに違いないと、坂木は踏んでいる）。二重で、切れ長の目じりが凛々しい。殺人的に鋭い目は、怖いくらいだ。通った鼻筋と引き締まった小鼻、薄めの唇がとてもクールである。竜を倒して、国中の人間に祝福されてお姫様と結婚するような、そんな騎士の顔をしている。
　誰が見ても美男と言うだろう、凄みのある非常な美貌だった。
　その美男は、坂木の出してくれた麦茶に口もつけず、じっと彼を見つめている。
　さすがに怖い。坂木は麦茶を飲んで、目を泳がせた。
「あ～……。お、思いだすなあ。この竹のコースター、きみのお母さんが選んだんだよ。懐かしいな」
　本当に懐かしい。五月の連休中、いっしょに行った金沢の工芸店でこれを見つけた。麻里亜の一目惚れで、坂木も確かにいいなと思った。以来、夏はこのコースターと決まっている。編集者や編集長、出版社の社長、本のデザイナーたちはみんなこれでお茶を飲んでいる。
　――麻里亜……。
　思いだすと、涙がにじみそうになった。慌てて眼鏡を持ち上げ、そっと目元を拭う。
　村瀬清路（むらせせいじ）は瞬きの少ない目で、まだ坂木のことを見つめている。ぽつりと言った。
「母は、こういったものを愛していました。わたしが暮らす、昔家族で住んでいた家にも、こういう美術的なものが多くあります。やはり職業柄、こういったものが好きだったんでしょうか」
　麻里亜はダンサーでもあり、振付師でもあった。主に、自分の母（村瀬にとっては祖母）が生まれ育ったイギリスで活躍していたが、最近は日本でも活躍の場を広げていたのだ。
　それが、つい半年前に亡くなった。
　死因は階段から足を踏み外した転落死。四十七歳という、早すぎる死だった。
「たしかに、きみのお母さんは芸術的なセンスに秀でていた。そうそう、アクセサリーも好きで、よく個性的でアーティスティックなものを身に着けていたよ。そういったものに囲まれて、おれもすごく影響された。きみのお母さんは……」
「あの、質問なのですが」
　抑揚のない声。澄んだ――というよりは、ギラギラした目が見つめてくる。騎士が一気に間合いを詰めるときの目だ。
「坂木さんは、母のことを生前『お母さん』と呼んでいたのですか？」
「……まさか。名前で呼んでたよ」
「じゃあ、その通りに読んでください。わたしのことは気にせず」
　坂木はばりばりと頭を掻いた。村瀬の目が、ひたと据えられている。
　坂木はどこか困ったような太い眉毛の持ち主で、黒縁眼鏡の奥の茶色い目はいつもぼんやりしている。もうそろそろ切りに行った方がいいような髪。無精ひげは伸びていないが、会うことが決まって急いで剃ったので、顎に切り傷があった。
　一八八センチの長身と骨太の体に加えて、冬眠から覚めかけたクマのようにぼんやりした顔の坂木は、ぴしりとしていて美貌の村瀬を前に、一瞬だけは背筋を伸ばした。――が、すぐに猫背になる。
　村瀬は麦茶を一口飲んだ。
　坂木はフォークで羊羹を切りながら、目を伏せている。顔を上げ、村瀬の目をしっかり見つめた。
「なあ、村瀬さん。今日は、来てくれてありがとう。きみが自分の分の遺産を分ける、と言ってくれたことはうれしいよ。でも、今は麻里亜が亡くなったことで心がいっぱいいっぱいなんだ。あなたの気持ちはうれしいけど、おれは遺産欲しさに麻里亜と付き合っていたわけじゃない。いいんだよ。遺産は、きみが全部もらって……」
「たしかに、あなたは母が亡くなったことで胸がいっぱいでしょう」
　形のいい、痩せた手を座卓の上に置き、村瀬が坂木の目をひたと見つめる。
「でも、だからこそ、です。本当に悲しんでいる人にもらってほしい。婚姻届を出していない限り、配偶者とは認められません。内縁の者はなにも相続できない。特別縁故者として相続できる制度もありますが、家庭裁判所に対して申し立てをしなくてはいけない。そのつもりはないんでしょう？」
　坂木はこくりとうなずく。
「そんなつもりはない。おれと麻里亜は……麻里亜は、今も戸籍上は配偶者がいるから」
「だから、おれの相続分から遺産をお渡しします。おれは、あなたにもらってほしいんです。母のいちばんつらい時期を支えてくれたお礼として」
　もう十年以上前から、夫との関係でつらい思いをしていたそうだ。その夫、村瀬春彦（はるひこ）は家を出たまま行方不明。失踪し、六年が経った。