4/4
前へ
/31ページ
次へ
 湯浴みを終えて洞穴に戻って寝床に就く。しかし眞白はなかなか寝付くことが出来なかった。 「僕ばかりお世話されているけれど……いいのかなぁ」  この島に来てから黒鉄の世話になってばかりだ。本来は贄として黒鉄に尽くす立場なのにこれではこの島に来た意味がない。番にもなれなければ黒鉄に迷惑をかけてばかりで将軍や村のみんなに顔向けが出来ない。  どうすれば黒鉄に恩返しができるのかと寝返りを打ちながら考えていたが、焦ったくなって飛び起きる。もしかしたら黒鉄が渡してくれた書物にどうすればいいか書いてあるかもしれない。幸いにも黒鉄は暇潰しの道具として眞白に書物を数冊と筆、そして紙を与えていた。眞白は早速書物を開くとそこに書かれている文字を追う。 「うーん……挨拶の書き方しか書いてないや」  黒鉄が渡してくれたのは手習い用の書物で文字の書き方くらいしか記されていなかった。何枚紙をめくっても埒が明かない。諦めかけていたその時、開いた箇所にその言葉は載っていた。 「ありがとう……」  そこに書かれていたのは感謝を述べる時の言葉だった。眞白も今までの人生の中で何度も口にしたことがある言葉。黒鉄には沢山の恩がある。そんな彼に今一番伝えたい言葉だ。 「これを書いて黒鉄様に送ったら少しは喜んでもらえるかな?」  眞白はまだ単語しか書けない。たった五文字では伝えたいことの一部も詰め込めないだろうけれど、それでも何もしないよりはマシだ。墨を用意した後に筆を手に取る。黒鉄に習った筆の持ち方を思い出しながら握った。筆先に墨を染み込ませて見よう見まねで紙に筆を走らせる。しかし線が真っ直ぐに引けなかったり、墨を含ませ過ぎたせいで文字が滲んで紙も破けてしまったりと散々だ。それでも眞白は諦めずに紙に向かう。 「出来た」  何十枚も紙を無駄にして出来上がったのは、歪な「ありがとう」の五文字であった。拙い文字だが一筆に込められた想いだけは誰にも負けない。墨が乾くように風通しがいい場所に置き、寝床に就く。 「黒鉄様、喜んでくれるかな」  黒鉄のことを考えると心が温かくなる。たまに火傷しそうなくらい熱くなって、喉が渇く。この強烈な渇きはなんだろう。いくら水を飲んでも潤うことがない。いっそのこと物知りな黒鉄に訊いてみればいいのだろうか。抱いたことのない感情の正体を探っているうちに、眞白は眠りに落ちていた。  翌朝、いつもの時間に黒鉄は朝食を持ってきた。 「小魚を甘辛く煮てみた。俺一人では甘味を作らないからこういったことも新鮮でいいな」  食事の献立を考えるのも大変だろうに黒鉄はそれを苦にしていない様子だ。元々凝り性な性格なのだろう。眞白は用意された朝食を残さず食べた後に、隠していた手紙を用意する。 「そんな浮き足立った顔をしてどうした」 「黒鉄様に見ていただきたいものがあるのです」  後ろ手に隠していた手紙を差し出す。しかし黒鉄は仏頂面で紙を見つめたまま何も言わない。 「私なりに頑張って書きました。いつも黒鉄様に良くしていただいているから、少しでも形にしたくて。ですが私は料理も出来なければ一人で魚も釣れません。それに着物を縫うことも出来ませんから、お手紙を……」  黒鉄にしてみればただの文字だろう。もし「感謝では腹は膨れぬ」などと言われてしまったら……眞白は嫌な想像をしながらも黒鉄を見上げた。 「ふ……」 「く、黒鉄様?」 「ふふっ。ありがとう、なんて久しく言われていないな」  いつも真一文字に結ばれていた口元が緩む。黒鉄の表情が僅かであるが綻んだ。それを見て眞白はただ息を飲んだ。初めて目にする黒鉄の微笑みが眞白の心を掴んで離さない。見惚れていると黒鉄は眞白の頭を撫でた。 「昨日教えたばかりなのにここまで成長を見せるとは思わなかった。やはり筋がいい。贄にするには勿体ないくらいだ」  ここに来て初めて褒められた。それがただ嬉しくて思わず黒鉄に抱きついた。黒鉄は拒むこともせずにただ背中を撫でてくれる。黒鉄の匂いと温もりが眞白に染み込んでいく。 「賢いお前にもう一つ教えてやる。誰かに手紙を出す時は宛名と差出人を記すのだ。せっかくだからお前の名前の書き方を教えてやろう」  黒鉄は紙と筆を手に取ると少し考え込んでから書き始めた。まっさらな紙に「眞」と「白」という字がしっかりとした線で書かれる。 「これでましろ、と読むのですか?」 「ああ。ただ、口頭でしかお前の名を知らない。もしかしたら違う漢字を当てるのかもしれないが、俺なりに考えてこの字を使った」 「難しそうですけど、なんだかかっこいいです」  気を良くしたのか黒鉄は「眞」に指を差す。 「この漢字の意味は偽りのないという意味だ。この白というのはお前の髪色を表す意味の字だな。混じり気のない白。新雪のような純白に相応しい」 「黒鉄様は私の白髪を好いて下さいますか?」 「お前の髪を見ていると故郷に降り積もる雪を思い出す。……良い色だ」  白髪のせいで物珍しがられ、外に出るのもままならなかった。でも黒鉄が褒めてくれるなら眞白は白髪に生まれてきてよかったと心から思う。 「黒鉄様のお名前はどうやって書くのですか?」 「俺の名前まで覚えるつもりか?」 「次に黒鉄様にお手紙を書く時に必要ですから」  すると黒鉄は眞白に見せるようにゆっくりと筆を動かしながら「黒鉄」と書いた。手渡された紙をまじまじと眺める。こちらも初めてみる文字だったが黒鉄の名前というだけで文字すら愛おしい。 「黒は俺の角と同じ色だ。鉄は刀なんかに使われる素材のことだな」 「早くこの文字も書けるようになります。もっと文字が書けるようになったら黒鉄様も褒めて下さいますか?」 「そうだな。お前ならきっとすぐに書けるようになる」  渡された紙をしまいながら眞白は考える。お礼を伝えるつもりがまた一つ黒鉄の世話になってしまった。もっと黒鉄に恩返しがしたい。自分に出来ることを模索して眞白はあることを思いついた。 「黒鉄様、沢山のことを教えて下さるお礼をしたいのです。どうか私の舞を見ていただけませんか?」 「別に好きでやっていることだ。礼は要らない」 「手紙だけでは伝えきれないのです。……それなら私も好きに踊らさせていただきます!」  眞白は立ち上がると村から持たされた扇を手に取った。そして扇を広げてくるりと回って見せる。目を閉じて意識を集中した後に口を開いた。高らかに歌い上げながら歌に合わせて足踏みをし、黒鉄のことだけを想って舞う。  黒鉄はただ何も言わずに眞白を見つめていた。陽の光が洞穴から差し込み眞白を照らす。少しでも黒鉄の心に寄り添えるように頭から爪先まで神経を張り巡らせた。黒鉄の頬を撫でるそよ風のように柔く、黒鉄の耳に語りかける小川のせせらぎのように優しい歌声で眞白は歌った。今までは教えられた通りに贄として選ばれた者の義務として歌や踊りを覚えていたが、心の底から何かを伝えたいと思ったのは初めてだ。  一曲を踊るだけでも永遠の時間に感じられた。最後の足踏みをした後、息を切らせながら黒鉄の方を見る。黒鉄はジッとこちらを見つめていた。 「これは驚いた」  黒鉄はぼやくように口にした。拒絶されても仕方ないと思っていたので思わぬ反応に眞白も困惑する。 「いかがでしたか?」 「俺に……人喰い鬼と呼ばれていたこの俺に……」  声が微かに震えていた。そして噛み締めるように瞳を閉じる。眞白にはその顔がどこか満ち足りたような表情に見えた。 「まだ、何かを美しいと思える心があるとは」  黒鉄はそう言ったきり、何も口にしない。沈黙から伝わる黒鉄の心の揺れを感じて、眞白はただ静かに立ち尽くした。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

318人が本棚に入れています
本棚に追加