1/4
前へ
/31ページ
次へ

 どれだけ願っても時間が進むのを止めることは出来ない。夜を迎える度に月はどんどんと欠けていき、姿を消す一歩手前まできてしまった。  黒鉄が丁寧に読み書きを教えてくれたお陰で簡単な書物なら一人でも読むことが出来るようになった。書ける単語もどんどんと増えていき、今では短い文章も書ける。  だが黒鉄に提示された期限である「新月の夜」は明日の夜だ。黒鉄はいつもと変わらない様子で眞白に接した。しかし眞白は新月の別れのことで頭がいっぱいで読み書きの手習いに身が入らない。 「今日は手習いを休むか?」  今日も二人で読み書きの練習をしていたが、あまりにも眞白がうわのそらだったのでなかなか先に進まなかった。見かねた黒鉄がため息混じりに提案する。 「ごめんなさい……」 「考えごとをしていては覚えられるものも覚えられない。他のことをした方が効率がいい」  そう言われても何をしたところで、別れの憂鬱が邪魔するだろう。初めて黒鉄と対面した時は「番にならなければいけない」という使命感で頭がいっぱいだった。それが今では全く別の感情に変わっていて眞白自身も戸惑っている。 「明日の夜には黒鉄様とお別れをしなければなりません。それが悲しくて何も手につかないのです」  もう残された時間も少ない。ならば気持ちを隠しても仕方がないので正直に伝えた。こんな子供っぽい自分に黒鉄は呆れるだろうか。ちらりと黒鉄の顔を盗み見ると眉間に皺を寄せていた。 「黒鉄様、ごめんなさい」 「ならば気分の晴れることをしよう。その憂鬱の元を取り去ることは俺に出来ない。だが紛らわせてやることなら出来るかもしれん」  黒鉄は筆や紙、書物を片づけると眞白に「着いてこい」と目配せした。言われるがままに黒鉄の背中を追う。向かった先は黒鉄の寝床だった。 「黒鉄様の寝床には入るなと……」 「今日は特別だ。いつまでも辛気臭い顔をされてはこちらの気も滅入るからな」  黒鉄の寝床である洞穴は眞白の寝床よりも広かった。壁には古びた刀や槍が立てかけられ、書物が無造作に積まれている。そして部屋の隅に沢山の木屑と小刀、そして木で作られた彫り物や玩具などが無造作に転がっていた。 「これは独楽ですか? それに櫛、あ、これは……髪飾り?」  独楽を手に取る。眞白は独楽で遊んだことがなく、村で同い年くらいの子供が遊んでいるのを窓の隙間から見ているくらいだった。だがこの独楽がとても頑丈に作られていて、細やかな飾り模様が彫られている。芸の細かさに惚れ惚れとしていると黒鉄が目線を逸らしながら気まずそう声な言った。 「暇を潰そうと木彫りを始めてな。それ以来玩具作りなどにも手を出した。図体のでかい俺がこのような遊びに興じているのを知られたくなかった」 「だから寝床に入るなと……?」 「それも一つある。あとは刀や槍なんかが置いてあるだろう。古く、中には錆びたものもあるがお前が不用意に触って怪我をされても困る。それに俺はこの武器達で沢山の命を殺めた。お前を必要以上に怖がらせたくなかった」  寝床に入るなという約束は眞白を拒絶したのではなく、思いやりからだったのかと思うと口元が緩んだ。 「こんなに素敵な玩具や飾りを作れるなんて、黒鉄様は本当にすごいです。私は不器用なのでこんな素敵な細工を彫ることは出来ません」 「お前は本当に大袈裟だな」 「大袈裟ではありません。本当のことを言ったまでです」 「……まぁいい。お前も玩具作りをやってみないか? ただ小刀は持たせられんから俺の切り出した部品を組み立てるだけだがな」  黒鉄は作りかけであろう木材を手に取ると小刀で削りながら成形し始めた。どうやら独楽を削り出しているらしい。眞白はその手慣れた手つきを夢中になって見つめた。 「こうして物を作っていると気が紛れる。指先の感覚に意識を集中すると心に巣食う澱みが消えていく気がしてな。近頃では複雑な模様も彫れるようになった。あくまでも俺の場合で、お前にはどうだか分からんが」 「見ているだけでも楽しいです。黒鉄様の手でどんどんと形が出来上がっていくのにワクワクします」 「お前の心が少しでも晴れやかになるならばそれでいい」  黒鉄の手の内で出来上がった独楽は形も良く、手触りもいい。黒鉄は小さな器を取り出す。そこには色鮮やかな塗料が水に溶いてあった。 「ほら、思うがままに塗ってみろ」  筆を取ると筆先に意識を集中させる。まずは黒の塗料で全体を満遍なく塗った。そしてその中央に白い塗料で線を塗っていく。途中線がよれてしまったがそれでもめげずに塗り続ける。そして出来上がったのは白と黒の独楽だった。派手な配色ではないが我ながらよく出来たと思う。 「随分と渋い色使いだな」 「これは黒鉄様の黒と私の白でございます。他の色も綺麗でしたが、私はこの二つの色が一等に好きです」 「そうか。それはお前が持って帰るといい。あとはこれもやろう」  黒鉄が差し出してきたのは花の模様が彫られた櫛と花を模した髪飾りであった。二つとも紅色に塗られており、甘い香りが漂う。 「実を言うとお前がこの島に来た時につけていた髪飾りは俺が遠い昔に彫ったものだ。どこで手に入れたかは知らんが、それよりも出来がいい」 「これはこの島に渡る時に親切な方が……紫苑様という方が下さったものです」 「なるほど。紫苑か」 「お知り合いなのですか?」 「ああ、遠い昔からのな」  故郷を懐かしむ時と同じような目をした後、黒鉄は眞白の髪を飾っていた飾りを外した。そして丁寧に櫛で白髪を梳かし、精巧な作りの髪飾りをつける。 「この紅はお前の白髪によく映える。紫苑が渡したものと同じ香樹で出来たものだが、香樹はその時代によって香りを変える。若い香樹の方が匂いが強い。少なくともお前が生きている間は香りが消えることはないだろう」  壊れ物を扱うように黒鉄の大きな手が眞白の髪に触れた。指先から伝わってくる優しさに名残惜しさが込み上げてくる。  太陽が沈まないでほしい。月が顔を出さないでほしい。永遠に新月にならないでほしい。  無茶な願いだと分かっている。わがままであることは百も承知だ。でもこんなにも誰かと離れたくないと思ったことは初めてだった。 「……何故泣く」  気付くと頬を涙が伝っていた。この島に辿り着いてからどんなに怖いことがあっても眞白は決して泣かなかった。だが涙は絶えず溢れる。いくつもの涙が頬を濡らし地面に落ちた。 「黒鉄様と離れがたいのです。悲しくて、寂しいのです。こんな気持ち、初めてで……ねぇ、黒鉄様。貴方のことを考えると胸が温かくなるときもあれば、心にぽっかりと穴が空くような気分になることもあります。貴方が触れてくださっただけで何もない空が輝いて見えて、しばらくするともう一度触れてほしいと願ってしまうのです。これは病気ですか? 最近では番になれなくても、側に居たいと思ってしまうくらいで……」  黒鉄の顔を見ることが出来ずに俯く。もっと言葉にして伝えたい。そうでないと胸が破裂してしまいそう。でも眞白は何も分からないから言葉が出てこない。 「黒鉄様、この気持ちはどういう字をしているのですか? そしてそれはどのような読み方をするのでしょう。どうか、教えて下さい」 「それは……」  普段の仏頂面が困惑に歪む。黒鉄を困らせてしまっていると思うといてもたってもいられなかった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

318人が本棚に入れています
本棚に追加