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「ごめんなさい。顔を洗って参ります」  水場を探して顔を洗えば少しはすっきりするかもしれない。しかし駆け出したところで書物の山に躓いてしまった。 「ああ……本当にごめんなさい」  慌てて崩れた書物を拾う。するとある一冊の古ぼけた本に見慣れた絵が描いてあった。一人の鬼が描かれている。それは黒鉄の顔にそっくりだった。  ──耀の国に鬼神黒鉄在り。一太刀振るえば敵軍を殲滅し、耀の国に永遠の栄光をもたらす。 「これは、黒鉄様……?」  思わずその書物を手に取った。頁をめくると馬に乗り勇ましい表情で刀を掲げる姿や、敵兵らしき男の首を刎ねる姿が描かれている。角の形から顔立ちまで黒鉄と瓜二つだ。 「ここに黒鉄様のお名前が書かれていますが……この字は神様を表す漢字ですよね? 鬼の神様とは一体……」  書いてある文の全てを読めるわけではないが、黒鉄を讃える書物であることが伝わってきた。描かれている黒鉄であろう人物は聡明で凛々しく、威厳に溢れている。場面はどれも戦に関連するものばかりだ。 「その書物を閉じろ」  黒鉄の声は明らかに動揺していた。今まで感じたことのない雰囲気に押されて言われた通りに書物を閉じ、書物の山の一番上に置いた。 「ご、ごめんなさ……」  心臓がけたたましく鼓動を打つ。黒鉄の触れてはいけない場所に素手で触れてしまったような気がして嫌な汗がこめかみを伝った。 「……いや、こうなった以上は話さねばならん。俺の忌々しい過去を」  黒鉄は覚悟を決めた様子で先ほどの書物を手に取ると広げて見せた。 「これは五百年以上前に書かれた戦の記録だ。これに描かれているのは全て俺にまつわることだな」  開かれた頁には町を勇ましい鬼達が列を成してどこかに向かう様子が描かれている。その先頭に立つのは黒鉄だ。 「俺はかつて耀の国、幕府で大老と呼ばれる地位にいた」 「黒鉄様が幕府に?」 「ああ。将軍の補佐、そして有事の際には兵を率いて戦場に向かった。俺の身体は頑丈だ。それ故に戦に向いていた。有り余る力をぶつけられる戦場こそが俺の生きる道であると信じて疑わなかった」  黒鉄が剣を振るう姿を想像しただけで彼の勇ましさを感じた。しかし、黒鉄が過去を語る声色はどんどんと暗くなっていく。 「前も話したが、鬼の一族は極北にある白銀の大地から安住の地を求め耀の国に辿り着いた。当時、耀を治めていた大名連中は鬼の強さを知るなりすぐに降伏した。俺達鬼は幕府を築き耀を統治した後、勢力の拡大を目論んだのだ」  黒鉄は書物とは別に地図を取り出す。そこには以前見せてもらった地図と同じようにいくつもの大陸が記されていた。だが国境を表す線が以前のものと違う。 「様々な小国を取り込み、耀の国は領地を広げその名を轟かせた。しかし……そんな我々にも決して屈しない国が一つだけあった」  黒鉄が指差したのは耀の国から少し外れた小国だった。見たこともない文字が書かれていて読めない。 「その名を碧の国といった。豊かな自然、そして鉱石がよく採れる国だった。鉱石を利用した貿易で築かれた富を俺達は狙った。碧という文字の意味は……」  先ほど独楽を塗るために用意された塗料の中から深い青の塗料を差し出してきた。眞白はこの色をよく知っている。どこまでも広がる空の色。島を囲う海の色。そして──鬼守の一族の瞳の色。 「碧の国はお前達、鬼守の一族……いや、碧の一族が治めていた国だ。俺達鬼の一族は碧の一族を虐殺し、自分達の繁栄の為に長い間奴隷として扱ってきた」 「私達は……耀の国で鬼に守られ生かされていると」 「それは長年かけて鬼がでっち上げた嘘だ。民を欺き都合よく支配するためのな。人の命は短い。書物や口伝……大量虐殺の証拠を消せば罪は風化する」  自分達の生きていた耀の国は戦のない平和な国だとばかり思っていた。暴かれた真実を目の当たりにして眞白は言葉も出なかった。 「でも、いくら黒鉄様が幕府の鬼であろうと、お一人で罪を背負うのは……」 「碧の一族が虐殺される理由を作ったのは俺だ」  黒鉄の額には玉のような汗が滲んでいた。歯を食いしばりながら何かを耐えるように声を振り絞る。 「繰り返される碧との戦を経て、俺はだんだんと疑問を持った。この戦いに意味があるのかと。支配ではなく同盟国として協力し合えば、無駄な戦もせずに耀も発展する」  身体は頑丈といえ、黒鉄の心根が優しいのは眞白がよく分かっている。決して私欲のために自分の力を使わない。この島でも力を振るう時は眞白を守る時だけだった。 「……俺には兄がいてな。当時の将軍からも信頼を得ていた。俺は兄に頼んで碧の国の王と交渉した。兄の交渉は見事だった。無事に同盟を結んだ俺達は珍しい鉱石の貿易権の代わりに耀の土地の一部へ碧の一族を招き入れた」  黒鉄の息が浅くなっていることに気付いて、眞白は黒鉄の手を握る。眞白の手の温かさに少しだけ落ち着きを取り戻したのか、黒鉄はゆっくりと続けた。 「しかし、それは全て兄の策略だったのだ。俺が他国を巡っている間に……兄と一部の兵は招き入れた碧の一族の器量の良いものを陵辱し、それ以外は全て殺した」 「なんて酷いことを……」 「俺が耀に戻った頃には、事実を知った碧の国との激しい戦が始まっていた。俺がいくら止めても無駄だった。その中で、さらに事態は最悪な方向へ向かう」  双銀城の襖に描かれていた鬼の絵を思い出す。あれは戦を描いていたのだ。鋭い目をした鬼神は黒鉄を描いていたのかもしれない。 「陵辱された碧の一族の何人かが男女問わず鬼の子を孕んだのだ。それに目をつけた将軍は若い者を奴隷として捉え、それ以外を全て殺すよう命じた。その命に背き、碧の一族を少しでも安全なところに逃そうとしたが……碧の一族からの信用を無くした俺の声など届くはずもない」  平和を願った黒鉄がどうしてこんなにも心を痛めなければならないのだろう。黒鉄の心を思うと引き裂かれるよりも強い痛みが眞白を襲った。 「俺は忘れない。碧の一族が俺に向けてきた怒りと悲しみの目を。結局、碧の一族が我々に勝てるはずもなく、碧の国は耀の国に統治された。そして碧の国に寝返ったとして俺は幕府から追放され、さらには兄が犯した罪を全て被ることとなった。いつしか〝裏切り者の人喰い鬼〟なんて呼ばれていたな」  自重気味に笑う黒鉄を思い切り抱きしめた。深く傷付いた黒鉄の心に傷薬を塗ってやりたい。眞白が怪我をした時に黒鉄が手厚く介抱してくれたように、黒鉄が気が遠くなるほど長い時間抱えていた痛みを取り除きたい。 「これで分かっただろう。俺はお前の一族が掟に縛られる原因を作った罪人だ。そんな俺がお前を番として縛るわけにはいかない」 「私は過去のことは何も言えません……ですが、黒鉄様は私に沢山のことを与えてくれました。私は贄としてではなく、一人の人として貴方を……黒鉄様をお慕いしております」  鬼守の掟を破っても黒鉄の側にいたいと思う。他の鬼の贄になりたくない。結ばれるなら黒鉄とがいい。 「お前のそれは熱病のようなものだ。いつかは冷める」 「私の気持ちは本物でございます!」 「……実のところ、俺はお前のことが可愛くて仕方がない」  驚きのあまり抱擁を解く。いつも仏頂面だったので眞白に全く興味がないと思っていた。 「最初はこんな俺の元へ贄として寄越されたことへの憐れみ、あとはお前達の一族に対しての償い。そのような気持ちで接していた。だがお前は読み書きや世間について教えてやるとどんどんと成長していく。海原が太陽を浴びてきらめくように瞳を輝かせているのを見るのがいつの間にか喜びに変わっていた」  黒鉄が頬にそっと触れた。触れられた箇所が火が灯ったように熱い。心の奥底でいくつもの小さなさざめきが起こる。 「私にとっても黒鉄様といることが最大の喜びなのです」 「だが俺は島を出れば大罪人だ。その番となればお前にも様々な災難が襲いくる。自由もなくなるだろう。俺は、お前が可愛いからこそお前の未来を奪いたくない」  その目を見て彼の決意が揺らがないと悟る。固い意志を宿した瞳。眞白が世界で一番好きな金色。 「側にいて結ばれるのが恋ではない。どれだけ離れても俺はお前の幸福を願うと約束する」  言い聞かせるように頭を撫でると額と額を合わせた。合わさった額から黒鉄の祈りが伝わってくる。 「分かりました。黒鉄様がそう言うのなら……ですが、最後に一つだけ私のわがままを聞いて下さいませんか?」 「……言ってみろ」 「接吻をしてほしいのです。結ばれるのが許されぬのなら、せめて、私の初めてを……奪って」  黒鉄は少し躊躇う様子を見せたがすぐにこちらを見るとゆっくりと顔を近づけてきた。唇と唇が触れる。生まれて初めての接吻はとても優しいものだった。柔らかなこの感触を、眞白は絶対に忘れない。黒鉄は眞白の唇をペロリと舐めると顔を離す。 「お前と過ごせる時間も僅かなのに、辛気臭い話をしてしまった。そうだ。作った独楽で遊んでみないか? 上手く回すコツを教えてやろう」  そう言って立ち上がったかと思うと黒鉄の体躯がぐらついた。よろめいたと思ったら地面に膝をつく。 「黒鉄様! 大丈夫ですか?」 「俺としたことが嫌な過去を話したせいで少し弱ってしまったようだな。すまんが、少し一人にしてくれないか? 夕飯まで横になればよくなる」 「でも、一人にするのは……」 「大丈夫だ。俺は人よりも身体が頑丈なのだぞ? どんな拷問も処刑にも耐える身体だ。心配は無用だ」 「それなら……私が今日の夕食を作ります! ここのすぐ側で作りますから、きっと獣に襲われることもありません」 「果たしてお前に夕食が作れるのか?」 「心配は無用です! 黒鉄様が汁物を煮てるのや魚を焼いているのを何度も見てますから。どうぞ、眞白に全てお任せ下さい!」  黒鉄は青白い顔をしながらも笑った。それを見て眞白は少しだけ安心する。 「なら任せてみよう。不味いものを作ったら承知しないぞ?」  そうと決まれば早速夕飯の下拵えをしなければならない。眞白は袖を捲り、意気揚々と洞穴を後にする。残された時間を悲しい顔で過ごすのは黒鉄をも悲しませる。ならばこの先、黒鉄が思い出したら笑顔になれるような思い出を最後の一秒まで作り続けようと眞白は心に誓った。
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