3/4
前へ
/31ページ
次へ
 翌朝、目を覚ますと黒鉄の姿はなかった。  代わりに眞白の身体は綺麗に清められていて、枕元には朝食まで置かれている。部屋の隅には眞白の荷物がまとめられていた。 「黒鉄様……?」  起き上がり外へ出る。しかしどこを見渡しても黒鉄はいない。いつも獣の襲来から守るように眞白のそばにいた彼が、何も言わずに眞白から離れるはずもない。  ふと地面を見ると大きな足跡が眞白の寝床まで続いていた。黒鉄の足跡だ。きっと荷物をまとめるために眞白から離れていたのだろう。駆け足で足跡を辿る。そして洞穴の入り口に辿り着くと大声で黒鉄を呼んだ。 「黒鉄様! おはようございます! 眞白も荷物をまとめるのを手伝います!」  黒鉄は眞白の寝床で横になっていた。休憩しているのだろうか? 眞白は黒鉄の様子を伺った。しかし横たわっていた黒鉄は苦しそうに悶えていた。額から大粒の汗を滲ませ、苦しそうに息を荒げている。 「黒鉄様⁉︎」 「……ああ、眞白か」  黒鉄は眞白に気がつくと笑みを浮かべた。苦しみを隠そうとしているのか頬が引き攣っている。眞白はしゃがみ込むと黒鉄の額に手を当てた。汗で湿った額は熱く、眞白は驚きのあまり思わず手を引っ込める。 「すごい熱が……」 「大丈夫だ。少し横になればすぐに治る。しかし、よりによってお前と過ごす最後の日に熱を出すとは俺も情けない」 「お水を持って参ります。すぐに戻りますからお休みになっていてくださいね」  はだけていた毛布を治すと大急ぎで洞穴を飛び出した。桶を片手に近くの湧水を汲みにいく。幸いにも近くに新鮮な湧水が出る岩場があったので例え途中で獣に出くわしても黒鉄の元まで走って帰れる。  雲一つない晴天の下、波の音がゆるやかに響く。島を囲む花々が風に揺れている。だがいつもの迫力に欠けるように見えた。目を凝らすといつも誇らしげに天を向いて開いていた花々は小さくつぼみ、萎れるように下を向いていた。 (まるで胸騒ぎに萎む僕の心みたいだ)  固く閉ざされた蕾の群れを尻目に眞白は桶いっぱいに水を汲み、黒鉄の元へ急ぐ。水を汲んだ桶はそれなりの重さだったが今の眞白ならば持てる。百華の島での暮らしがひ弱だった眞白の身体を強く育ててくれた。 「黒鉄様! 戻りました!」  眞白は碗に水を注ぎ黒鉄の口元に差し出す。黒鉄は横になったまま、美味しそうに飲み干した。眞白はもう一杯水を注いだ後に残りの水で布を湿らせて黒鉄の額を冷やすように置いた。 「冷たくて気持ちがいい。生き返るようだ」 「具合が悪かったのも知らず、黒鉄様に頼り切りだった私が恥ずかしいです……」 「あの時はなんともなかったのだが、お前が寝静まってから急に具合が悪くなってな。何度か吐いたら楽になったが……みっともないところを見せてしまった」  水を飲んで少し楽になったのか仰向けになり天井を見上げた。眞白はそっと黒鉄の手を握る。少しでも気分が良くなるようにと祈りながら手の甲をさすった。 「もう少しで幕府の船がやってくるだろう。荷物はもうまとめてある。奴らがやってきたら俺の寝床にあるものを持っていくように伝えるんだ」 「私は入江まで向かった方がよろしいでしょうか? 鬼の方々が堕鬼の花に当てられて具合が悪くなっても申し訳ないです」 「ここにいてくれ。それに奴らも今日だけは百華の島に入れる」  黒鉄はゆっくりと身を起こすと眞白と向かい合った。相変わらず顔は火照っているが起き上がれるくらいには気分がよくなったのだと信じたい。 「堕鬼の花は一月に一度萎む。その時は花粉が飛び散らないのか、毒が薄れるようでな。それを見計らって幕府の鬼達は俺の様子を見にくる」  先ほど見た堕鬼の花畑を思い出す。晴れ晴れとした青空の下で萎れる白い蕾の群れはどこか異質だった。 「だから新月の夜に人喰い鬼が現れるという噂が広まったのですね」 「ほう、そんな話があるのか」 「新月の夜はほとんどの人が家の外に出ません。町で石売りをしている村人いわく、新月の夜は双銀城の門は閉ざされ強い鬼が夜通しで見張りをしているそうです」  黒鉄は眞白の話を聞くなり愉快そうな顔をした。自分の噂話であるのにあまり気にも留めていない様子だ。 「馬鹿馬鹿しい。俺は堕鬼の毒が弱まろうがこの島を逃げ出したりはせん」 「黒鉄の意志は固いのですね。私だったら外の世界見たさに耐えられずに飛び出してしまうでしょう」 「ああ、俺は世界を知った上でここにいる……だが、いざお前と離れるとなるとこの島を抜けてお前と共に生きていたいと思ってしまうのも事実だ」 「そんなことを言われたら、黒鉄様の手を離せなくなってしまいます」 「……だが、俺はここにいなければならない」  黒鉄は眞白の髪を指で掬った。柔い白髪の感触を名残惜しんでいるようだった。 「幕府の連中は知らぬようだが、三百年前の戦が終わった後も何度か玄の国が耀の国へ攻撃を仕掛けようとしたことがある」 「え⁉︎ 戦は終わったのに……」 「それだけ耀の国の資源は魅力的なのだろう。しかし玄から耀に行くにはこの海を渡らなければならない。そしてこの海には百華の島が……俺がいる。いくら腕が鈍っても、玄の兵を追い返すくらい造作もない」  黒鉄は幕府を追い出されてもなお、耀の国を守り続けていた。玄の国も黒鉄の恐ろしさを知っている。黒鉄がこの島にいる以上は耀に攻め入るのは至難の業だろう。 「俺がここに留まる限り耀の国は攻められることもない。お前達、鬼守の平和も守られる。これが俺の償いだ」  眞白達、そして耀の民の幸せは当たり前のものではなく、黒鉄によって守られていた。そしてこれからも黒鉄は大罪人の汚名を背負いながら、耀の国の平和を祈り守り続ける。 「……そんな顔をするな」  黒鉄は眞白を抱き寄せ胸の中に収めた。 「側に行くことは出来ないが、離れていてもお前の幸せを願う。約束しよう。番になれずとも、お前は俺の光だ」 「異国の地でも私は黒鉄様のことをお慕いし続けます。どれだけ離れていても私が心に決めた人は貴方だけです」 「いつか生まれ変わることが出来たら、血筋による差別やしきたり、そして戦のない世界に生まれたい。待たせてしまうかもしれんが、生まれ変わっても必ずお前の元へいく。そうしたら今度こそ一緒になろう」  黒鉄の指が眞白の白髪をかき分けて頸に触れた。頚椎の段々を一つ一つ確かめるようになぞる。そしてつむじに口づけを落とした。 「きっとこの白髪は髪が天からでもお前を見つける印なのだろう。この髪に触れることが出来て俺は幸せ者だ。何一つ淀みのない紅玉の瞳に滲む輝きを俺は忘れない」  笑顔でこの島を去ろうとしたのに耐えられず、眞白は黒鉄の胸で泣いた。黒鉄は黙って背を撫で続ける。眞白は黒鉄の温もりと匂いを心の奥底に深く刻みつけた。  幕府の船がやってきたのは二人で最後の昼食をとったすぐ後だった。十人ほどの鬼の先頭に立つのは百華の島に眞白を送り届けてくれた紫苑だ。 「黒鉄様、この度もお変わりはないようで」 「お陰様でな。俺の寝床に荷物がまとめてある。あとは眞白が色香を放つようになった。煎じ薬は積んであるか?」 「万が一に備えて、一週間分ですが用意がございます」  黒鉄の信頼しきった様子と紫苑の態度から二人が旧知の中であることはすぐに分かった。そして紫苑に続く鬼達も畏敬の念がこもった眼差しで黒鉄のことを見つめていた。 「眞白様もお元気そうでなによりです」 「お久しぶりでございます」  黒鉄の大きな身体から顔だけ覗かせるとペコリとお辞儀をする。それを見て黒鉄は笑いながら眞白の肩を抱いた。 「恐れなくてよい。紫苑は俺が大老の時からの右腕だ。剣の腕もいいし、頭も切れる。なにより人がいい。……そして、鬼守の過去を知る者だ。お前の悪いようにはしない」  黒鉄が言うのだからと前に歩み寄ると紫苑は深々とお辞儀をした。彼の柔和な笑みが眞白の緊張を和らげてくれた。 「ここにいる者は黒鉄様に仕える者です。私達は眞白様の味方でございます」  他の鬼達は一歩引いたところから眞白を見守っている。黒鉄と離れることに不安しかなかったが、この鬼達ならば信じてみてもいいかもしれない。 「では早速荷物を運び出すとしましょう」  紫苑の指示に鬼達はテキパキと荷物を運び始める。衣服や書物を中心とした荷物はあっという間に船に積まれていく。重い荷物を軽々と運んでいく姿を見て、鬼の腕っぷしの強さに圧倒された。  黒鉄と共に過ごした洞穴から自分の荷物が消えていく。それを見ていたら旅立ちの不安に押しつぶされそうになった。眞白の変化に気付いたのか黒鉄は口を開く。 「お前が向かう場所は自然が溢れる豊かな国だ。俺も幕府にいた頃に何度も足を運んだが、その度に心が癒された。耀の国とはまた違った良さがあるぞ」 「耀の国や百華の島に勝る国があるのでしょうか」 「その土地にはその土地の良さがある。百華の島では出会えないものにも出会えるだろう。お前の見聞をさらに広めてくれるだろう 」 「どんなに素晴らしい国でも、そこに黒鉄様はいません」  眞白が寂しそうに言うと黒鉄は困った顔をした。笑顔で黒鉄の元から旅立ちたいと思う反面、寂しさを拭えないのもまた事実だ。しかし黒鉄は未熟な受け答えを責めることはなかった。 「お前が言う通り、俺はお前の元にはいけない。いくら豊かな地といえども孤独に苛まれることもあるだろう。だが、どうか塞ぎ込んで可能性から目を背けないでほしい」 「可能性……」 「お前はなんでも出来る。俺と出会ったばかりの頃は何も知らなかったのが、沢山のことが出来るようになっただろう? これからも様々な知り、自分の思うがままに生きてほしい。それが俺の願いだ」  黒鉄の目は海の向こう、遥か遠くを見つめていた。眞白はその横顔を眺めた。太く凛々しい眉。輝く黄金の瞳。すっと通った鼻梁。少し厚い唇。この人が好きだと、眞白は心から思った。 「荷物が積み終わりました。私達は先に船におりますので、眞白様も準備が出来ましたら船までお越しください」  紫苑は用件だけ告げるとすぐに船へと向かっていった。どうやら最後に二人きりになれるように気を遣ってくれたようだ。いよいよ別れの時。伝えたいことが沢山あるのに、黒鉄の顔を見ると何も言えなくなってしまう。 「……眞白」 「はい」 「ちゃんと飯を食えよ。それからお前は何かと怪我をするから十分に気をつけろ。それから……ああ、ダメだな。これではまるで子離れ出来ない親のようだ」  不器用ながらも温かな黒鉄の言葉に胸が詰まる。鬼守の掟しか知らなかった眞白の世界を変えてくれた愛しい人。眞白はこの先も彼のことをずっと想い続けることだろう。 「黒鉄様、眞白は幸せでした」 「そうか」 「たとえ番になれないとしても、眞白は貴方を想い続けます。どんなに遠い異国へ行こうと、私の気持ちは変わりません」  黒鉄は眞白を担ぐと入江に向かって歩き始めた。高くなった視界から見渡す百華の島の風景もこれで見納めだ。 「俺も、この重みをずっと忘れない」  追い風が吹く。眞白の旅立ちを後押しするかのようだ。振り返ると黒鉄の足跡が浜辺に続いている。二人で過ごしたこの一ヶ月は、黒鉄にとって長い人生の中の一瞬だっただろう。それでも自分との思い出がこの先の黒鉄を明るく照らしてくれたらいいと強く願った。  船に辿り着く頃には覚悟も決まっていた。黒鉄から降りて自分の足で船へと乗り込んだ。 「達者でな」 「黒鉄様も、どうかお元気で」  船が海原へと出発する。少しずつ百華の島が遠ざかっていく。眞白は黒鉄が見えなくなるまで手を振った。黒鉄の影が見えなくなっても眞白は百華の島の影を船から眺め続けた。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

318人が本棚に入れています
本棚に追加