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参
翌朝。
朝食を食べた後、すぐに読み書きの練習が始まった。
まず黒鉄が手渡して来たのは古い筆だった。石の器に注がれた墨液、不揃いの和紙も一緒に用意された。目の前に開かれた書物には挿絵と共に文字が書かれている。森の小屋で目にしたものよりも大きく書かれており、文字がどう書かれているのか見やすい。
「これは昔に寺小屋で使われていたものだ。子供達が文字を覚えるための書物だからお前にはうってつけだろう」
「寺子屋?」
「子供達が手習いをする場所だ。お前の村にはなかったのか」
「村長が一部の子供達には読み書きを教えていると聞いたことはありますが……私のように贄に選ばれた子供は読み書きではなく唄や踊りを教えられていました。それに私は家から出してもらえませんでしたから、村がどのような大きさでどのような場所があるのか知らないのです」
「ならば読み書き以外にも城下町や他の国のことも教えてやるとしよう。実際の景色を見せてやることは出来ないが、様々な景色を描いた絵巻がある」
「本当ですか⁉︎」
「まずは文字を覚えることだな。文字が読めなければ書物に書かれたことも読み取れない。知りたくても知ることが出来ないというのは人生を損している」
文字を一から覚えるというのに自信はないが、せっかく黒鉄から習うのだから精一杯頑張りたい。そして黒鉄が言う「世界を知ること」が自分の価値観にどう作用するのかを知りたかった。
「まずは一文字ずつ発音を覚え、文字を見たままに写してみろ。言語というのは声に出すのと実際に書くのが一番いい」
言われたままに筆を握った。だが筆を持つ手を黒鉄がジッと見つめてきたので気になって筆を置いた。
「あ、あの……何か?」
「いや、そもそもお前は筆を握ったことがないのを忘れていた。筆の使い方から教えよう」
黒鉄は洞穴から出ると木の枝を片手に戻ってきた。筆と同じくらいの太さの枝を折って長さを調整すると筆に見立て握る。そして眞白によく見えるように目の前に差し出した。
「筆の中ほどを親指と人差し指、そして中指で持つんだ。それを薬指で支えて小指を添える。俺の手を見て握ってみろ」
「こうでしょうか?」
「それだと下過ぎるからもう少し上を持つといい」
黒鉄が手を握って眞白の手を上の方にずらす。すると筆を持つ手が安定した。
「一度離してさっきと同じように握るんだ」
言われた通りに筆を置くともう一度握ってみる。何度か試行錯誤しているうちに先ほど同じように握ることが出来た。
「筋がいいな。では、実際に書いてみるか」
黒鉄は書物を一頁ずつめくり、そこに書かれているものの発音を教える。眞白は字の読み書きこそは出来ないが喋ることは出来る。自分が今まで口にして来た発音と文字を照らし合わせればなんとか覚えることは出来そうだ。
しかし書くのは何度繰り返してもうまくいかなかった。筆を持つのも初めてなので仕方がないかもしれないが、不恰好な文字しか書けない。練習を繰り返しても一向に上達せず、書き損じの山が積み重なっていく。
「黒鉄様、せっかくの紙を無駄にしてごめんなさい」
この時代において紙が貴重であることは眞白も知っていた。村長の自室にある書物に触れた時にこっぴどく叱られたからだ。紙は高価なもので、それを束ねて作った本はそこら辺の鉱石よりも価値があるものもあると言われた。そんな貴重な紙を山ほど無駄にしてしまった。罪悪感から黒鉄の顔も見れない。しかし黒鉄は少しも気にしない様子で眞白の背後に回ると筆を持つ眞白の手に自身の手を添えた。
「不要な紙ばかりだ。問題ない。それに誰でも初めは失敗をする。失敗を沢山して人は物事を覚えるのだ。腐らずに向かい続ければきっと上達する。俺がお前の手を支えながら書く。身体で覚えるんだ」
「は、はい」
黒鉄の大きな手のひらの温もりが眞白の小さな手に染みる。黒鉄はゆっくりと眞白の手ごと筆を動かした。きっと眞白が覚えやすいように極力ゆっくりと筆を動かしているのだろう。
これだけ良くしてくれているのだから一刻も早く文字を覚えなければならない。なのに黒鉄の温もりを感じると胸が苦しくなって何も頭に入らない。
釣りの時もそうだったが黒鉄に触れられる度にドキドキしてしまう。人喰い鬼だなんて言われているが彼の手のひらは温かい。その温もりをもっと知りたいと思う。手のひらだけではなく、その大きな体躯の隅々まで。
「……退屈か?」
「え?」
「いや、集中が途切れているようだったからてっきり飽きてしまったのかと」
「いえ! そんなことはございません! まだ完全に覚えたわけではないですが、私が普段口にしている言葉と文字が一致していくのは楽しいです」
「ならばいいのだがな。だがあまり長く続けても効率が落ちる。少し休むとしよう」
黒鉄は碗に茶を注いだものを持ってきた。口にするとほのかに甘い香りが混じる。村で飲んでいたものとは違う風味に思わず目を見張った。
「こんな美味しいお茶を飲むのは初めてです!」
「それは森の茶の木から作ったものだ。百華の島には沢山の種類の茶の木が生えている。その中でも甘い香りがするものを煮出しておいた」
「黒鉄様はお飲みにならないのですか?」
「その茶の木は生えてる数も少ないからあまり茶葉が作れん。俺は飲めればなんでもいいからお前が飲め」
「一人で飲むのは寂しいです」
「ならば俺は別の茶を飲む。その茶はお前が飲むといい」
黒鉄も自分の分の碗を持ってくる。眞白のものとは違う香ばしい香りがした。黒鉄が啜っているのを見つめていると、飲みたいのかと勘違いしたのか黒鉄が碗を差し出してくる。
「こちらも飲んでみるか?」
あまり遠慮しても失礼だと思い口に含む。先ほどの茶とはまた違う香ばしい風味が鼻を抜けた。
「黒鉄様は様々なことを知っているのですね。生活に使っている道具……この碗も全て黒鉄様の手作りでしょうし、茶の木の見分けも出来るなんて尊敬します」
「この島に流されてから百年はゆうに超えている。暇を持て余していただけだ。それに道具の作り方やこの島の植物については書物で学んだ」
眞白から戻された碗に口をつけながら黒鉄は淡々と語る。その目は昔を懐かしむような顔をしていた。
「昔は俺も読み書きが苦手だった」
「黒鉄様にも出来ないことが?」
「確かにお前から見れば俺は何でも出来るように見えるかもしれないな。だが俺はお前達よりも長く生きる。それ故に学ぶ時間も多い。何度も失敗して様々なことを身につけたのだ。学び続けて今がここにある」
眞白が想像出来ないくらい長い年月かけて黒鉄は努力し続けた。眞白の人生は黒鉄に比べればあっという間に終わってしまう。それでも眞白は黒鉄のように頑張ってみようと思えた。読み書きの勉強を通して眞白は学ぶことの喜びを知った。なにより学ぶことで黒鉄に近づけることが嬉しかった。
「いつか一人で文字を書けるようになれるように頑張ります」
「ああ、励むといい。読み書きが出来ればあらゆる事を記してこの世に残すことも、先人が記したものを読み解くことも出来る。身につけた学問はお前の財産となるだろう」
今まで贄として必要なこと以外、学問に触れることはなかった。だが世の中は学ぶことが沢山ある。黒鉄にもっとこの世界のことを教えてもらいたい。新月の夜が永遠に来なければいいのにと眞白は願ってしまった。
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