No Medicine No Music No Lile

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 彼は毎日錠剤を飲んだ。というか接種しないともはや生きてはいけなかった。  その錠剤は三種類あって、青色の錠剤はブルーな憂鬱感を、赤色の錠剤は情熱の高揚感を、グレーの錠剤は中立的な落ち着きを伴うメロディーが浮かんでくるという特殊な効用があった。そしてそのメロディーはほぼ一日中彼の脳内に流れ続けた。  そのメロディーに身を任せるだけで彼は日常のあらゆることを気持ちよく平常心にやり過ごすことができる。逆に言えばそれが無いと彼はすぐに錯乱状態に陥った。    彼はその日の気分でどの錠剤にするかを選択する。基本的に気分が沈んでいる時はダウナーサイドの青の錠剤を、逆に気分が晴れやかな時はアッパーサイドの赤の錠剤を選択した。その時の気分に寄り添うメロディーを求めたのだ。ただその薬を飲み過ぎると生死に関わるような副作用を伴うため、一日一錠に限られた。一錠で一日中メロディーが流れるのだから一錠で充分だったのだが。  いずれにせよまさに"音楽"が彼にとっての精神安定剤だったわけだ。でも彼は生まれてこの方ずっとこの錠剤に頼って生きてきたわけではない。    元々彼には最愛の彼女がいた。その彼女は彼にとっての精神安定剤みたいな存在だった。でも一緒に暮らす内に互いの愛はすれ違い冷め合って、やがて彼女は彼の元を去ってしまう。その彼女に対する喪失感は、根こそぎ身体全体をもってかれてしまう程の激しい揺れを伴った。元々”笹”のように繊細だった彼は、ささいな風に吹かれただけで敏感に左右に揺れ、ささくれ立ち、すぐに平常心ではいられなくなった。かつて心の支柱だった彼女を失った衝撃はあまりにも大きすぎたのかもしれない。例え心の支柱であった期間が過去の一時期であったとしても、それは簡単に他の何かで埋め合わせできるような代物ではなかったのだ。一時的であれ、彼女の存在はそれだけ深く心に刻まれた。    『きみは♫いつも僕の薬箱さ~♫』  有名曲の歌詞にあるような"きみという薬箱"を失った彼が生きていくためにたどり着いた術は、”音楽”という薬箱。もうそれしか無かった。  そうして錠剤の効用で脳内に流れるメロディーを元に作曲をすることが彼にとって生き甲斐のようになっていった。気がつくと作曲数は数百にも上った。そしてその内の何曲かをSNSにアップしたりもしていた。  錠剤の効用により、ブルーな曲からハイテンションな曲まで幅広い彼の作曲センスは、あるときSNS上で有名プロデューサーの目に止まり、作曲家としての道を歩むことになる。彼が薬の常習者であることはもちろんプロデューサーも認識済みだった。というかそれは別に特別なことではなかった。特に音楽業界では薬の常習者が多かったのだ。プロデューサー自身もその一人だった。  生きていると必ず大切な人を失うタイミングはやってくる。その悲しみは計り知れない。この世の中を生き抜くのはそんなに甘くは無いのだ。むしろ薬を飲んでいない方が"異常な鈍感者”と言えるこの世界、人々はそれぞれ自分に合った薬を接種することで、日々の生活を穏やかに生きていけたのだ。  
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