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 学校に戻り、三年生の引退式を終えると、これからは健人達二年生が、野球部の主役となる。  健人のポジションは内野手だ。基本はセカンドで、ショートとサードも――その気になればファーストも守れる。不動のレギュラーであった三年生達がいなくなった今、秋の大会では是非にも背番号を――と意気込みたいところではあるのだが、今年の二年生は内野手豊作の年と言われていて、セカンドのレギュラーに一人、内野の控えとして既に三人の二年生がこの夏の大会でにベンチ入りしている。彼らの中に怪我人でも出ない限り、健人が背番号を貰うのは、二桁台であってもかなり難しいだろう。運よく――といっては語弊があるが――怪我人が出て、秋の大会で十六番あたりの背番号がもらえたとしても、南北海道の超名門・北潮高校野球部には毎年ものすごい新入生が何人も入部してくるから、来年夏にはあっさりはく奪される。高校二年生・十六歳にして、健人は自分自身の野球人生に対し、かなり悟りを開いた気分になっていた。  引退した三年生にして元・野球部応援リーダーの柿崎に呼び出されたのは、今年開業した新球場・エスコンフィールド北海道で南北海道大会決勝戦が――札南第一が劇的な逆転サヨナラ勝利で優勝した――行われた翌日のことだった。  高校野球では夏の大会の敗退をよく「夏の終わり」と言い表すけれど、よくよく考えるなら――否、よくよく考えなくたって、七月下旬は世間一般的に夏の盛りである。北海道でも最高気温は連日三十度を超え、札幌市内でも熱中症で搬送される人が続出しているとか。ちなみに昨年、北潮が夏の甲子園出場が決めた際には、レギュラーとベンチ入りメンバーは、冬用の上下のウィンドブレーカーを着て真夏のグラウンドを走り回って、その恰好のまま暖房をガンガン焚いた室内練習場で練習していた。当時まだ一年坊主で、北海道の中でも比較的夏が涼しい道東の町・根室からやってきて三カ月ばかりだった健也は、〇コンマ一秒くらい本気で、こんな辛い思いをしてまで甲子園でプレーしたいのだろうか――と考えてしまった。  今年の北潮高校は準々決勝で負けた為、地獄の熱中特訓は開催されていない。仮に昨日の試合で優勝して甲子園が決まっていたとしても、ベンチ入りしていない控え部員が灼熱練習に参加することはないだろう。ならば来年はどうなのかという点に関しては、正月休みに故郷の海に煩悩を捨てて頭を丸めて――元々坊主なので敢えて丸める必要はないが――悟りを開いて帰って来ようかな……という気がしている。 「……少し迷ったんだけどさ。これ、一応、お前に預けておくから」  実家が根室で寮生活の健人とは違って、家が札幌の柿崎は自宅通学だ。自宅からランニングがてら野球部の寮にやってきて、練習を終えた健人がグラウンドから寮に帰ってくるのを待っていたらしい。呼び止められて寮の近くの木立に連れて行かれた時には、いくら多様性の時代であっても、いやさすがにまさかそれはないよな……と一瞬だけ不安に思ったが、その心配はまったくの杞憂だった。引退してからまだ一週間しかたっていないのに、柿崎の見た目からは既に高校球児の匂いが抜けかけている。Tシャツにハーフパンツというラフな格好で、頭髪も坊主頭からスポーツ刈り程度に伸びていた。超名門野球部の高校球児から、夏休み中の男子高校生となった先輩は、一冊の大学ノートを練習着姿の健人に向かって差し出した。  大学ノートには思いのほか綺麗な読みやすい文字で、応援団の立ち位置や声の出し方、吹奏楽部と全校生徒の球場内への誘導方法と撤収方法、そして円山球場および麻生球場の救護室の場所と熱中症の生徒が出た時の対処方法・涼しい木蔭への最短ルート等が、黒ボールペンと赤ボールペンと黄色のマーカーと付箋付きでびっしりと書き込まれている。 「柿崎さん、これ……」 「OBと先輩達から聞いた情報と、俺の今年の経験を踏まえて書いた応援ノートだ。小谷学園に敗けた後、雑紙の日にゴミと一緒に捨てようか……とも思ったんだが、結構苦労してまとめたから、何だかもったいなくなってな。でも俺が持っていたって、この先、使いようがないわけだし。一応、健人、お前に預けておく」 「……はい」  北潮高校野球部応援の神。お前は応援の為に生まれてきた男だ。二年の秋に応援リーダーに就任し、秋の全道大会から春の全道大会、そして夏の大会を経て、柿崎はいつしかレギュラーを含む三年生全員から、そう呼ばれるようになっていた。決してベンチ入りできない控え部員を揶揄する言葉ではなく、本気の賞賛であったから、言われた本人も決して悪い気はしていなかったのだろう。言われるたびににっこり笑って「俺は試合に出るより、こっちの方が性に合ってるんだよ。甲子園のアルプスでも最高の応援をしてやるから、お前ら、俺を甲子園に連れて行け」と言って返していた。  声出し応援解禁の年に、応援の神が記した応援ノート。それはもしかすると、とんでもなく価値のあるものなのではないだろうか。  押し頂くように大学ノートを受け取った健人を見て、柿崎は、はっきりと苦笑いの表情になった。 「おいおい、そんなに喜ぶなよ、健人。俺はお前を応援してるんだぞ。――来年の夏、お前はこのノートを役立てるな」  思わず目を見開いて、この夏、誰よりも近くにいた先輩の顔をまじまじと凝視してしまった。  ――北潮高校応援リーダー。応援の神。  だけど、この人の中にも思いはあったのか――本当は応援する側ではなく、応援される側に回りたかったという思いが。 「じゃあな。練習終わりに呼び止めて悪かった。お疲れさん」  苦笑いの後、現役時代より白くなった顔に爽やかな笑みを浮かべて、少し伸びた坊主頭が遠ざかって行く。汗の浮いたグレーのTシャツの背中を見送りながら、健人は茜色に染まり始めた西の空に視線を向けた。  これでも一応、中学三年の時に北海道の超名門・北潮高校から声がかかったのだ。中学時代は道東のシニアチームでレギュラーとして活躍し、ゆくゆくは北潮の背番号四をつけて甲子園に――という野望は抱いていた。だが入部して最初の練習で、健人の夢と野望は呆気なく打ち砕かれた。打球の速さが違う。スイングスピードもベースランニングも……とにかく何もかものレベルが違う。こんなところでレギュラーを取るなんて夢のまた夢だと、挑む前から諦めていた。  札幌まで息子を送り出してくれた根室の両親も、シニアチームの監督も、今はもう誰もが健人が北潮でベンチ入りするのは無理だと諦めている。当然だろう。当の本人がいの一番に諦めたのだから。だけどもしかしたら、まだ挑んでみてもいいのだろうか。この世にたった一人だけでも――信じて応援してくれる人がいるのであれば。  柿崎に渡された大学ノートを大切にスポーツバックの中に仕舞って、寮のある方角に向けて歩み出す。七月の北海道はまだ蝉が鳴くには早いはずなのに、どこかで気の早い蝉の鳴く声がした。  そう、夏が終わるにはまだ早い。来年の六月、夏の地方大会予選前に監督から背番号の発表があるまでは、まだ一年近く残っている。だからそれまで、このノートは寮の机の引き出しに鍵をかけて大切にしまっておこう――と、健人は思った。
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