1/3
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

 二〇二三年夏の南北北海道大会は、準決勝以降が新球場・エスコンフィールド北海道で行われる。北潮高校野球部はエスコン直前の準々決勝・南北海道大会ベスト八で敗退した。  準々決勝の札幌小谷学園高校戦は、十三対六――七回コールドの完敗だった。北潮は昨夏の優勝校であり、この大会でも優勝候補に挙げられていたのだが、どこからどう見ても完全なる力負けである。OBにも校長にも、無論、選手達の前でも口にも出したことはないが、このチームで夏の優勝は難しいと悟っていた北潮高校野球部監督の松原保は、七回裏のスリーアウト目を取られた次の瞬間には、秋の新チームの構成と、野球を続ける三年生達の今後の進路について頭を切り変えていた。  グラウンドで大泣きした選手達の目は皆一様に真っ赤で、円山球場の駐車場からバスに乗り込む段階でも、頬にまだ涙の痕が残っている者もいる。かれこれ十年以上、北海道の名門・北潮高校野球部の監督を勤める松原にとっては毎年見慣れた光景であり、思い切り泣いた後の帰りのバスで、憑き物が落ちたように、仲間たちとふざけてじゃれあっている笑い声を背中越しに聞くのも、毎年、飽きるくらいに繰り返してきた光景である。  ――優勝しても甲子園のない南北海道独自大会で北潮高校が優勝してから、三年の月日が流れていた。  あの年の選手達は、試合終了後に泣くことができなかった。例え人知れず涙を流した選手がいても、頬を伝う雫を見つけてやることはできなかっただろう。試合が終わると同時に、全員がほぼ強制的にマスクを着用させられていたから。  野球部関係を乗せた一台目のバスが発車しようとした時、円山球場内にサイレンが鳴り響いた。次の試合の保護者や関係者だろう。そろいのTシャツと帽子とメガホンを手にした保護者らしき集団に無意識に視線が吸い寄せられてしまった。Tシャツには北海道の高校野球でおなじみの札南第一の四文字。――あの中に松原の妻・美恵子もいるはずだった。  ちょうどマイクロバスが球場敷地内をでた時に、球場からサイレンの音がなり響いた。  ――札南第一高校、ノックを行ってください。時間は七分です。  準々決勝第二試合、札南第一高校対東洋大札幌高校の一戦が始まろうとしていた。 「――俺、高校は北潮以外ならどこでもいい」  当時中学生だった一人息子の和希がそう言った時、松原は心の底からほっとした。和希は札幌市内の名門シニアで四番を任されて、中三の夏には北海道選抜に選ばれて全国大会にも出場した。非凡な野球センスを持った逸材であり、北潮高校のスカウトからは「監督の息子さんでなかったとしても、ぜひともうちに来てほしい」と言われていた。親の欲目を抜きにして――北潮高校野球部監督の目で見て、将来の四番を打つにふさわしい素材だと思う。しかし目を輝かせたスカウトから息子を褒められた瞬間、松原は暗澹とした気分になった。松原自身は小学二年で野球をはじめ、高校二年と三年の夏に甲子園に出場し――大学・社会人野球を経て母校の監督となった、筋金入りの野球人である。そして筋金入りの野球人としてはあるまじきことに、我が子がこの世に産まれたその日から、息子には野球以外のことをしてほしいと願っていた。  松原自身は昭和後半の生まれだが、育ったのは平成の世の中である。鉄拳制裁は親や監督からであっても表向きは厳禁で、熱中症予防の為に、練習中には積極的に水分補給することを推奨されていた。だが松原の親世代――父は完全に昭和生まれの昭和育ちの人間だった。北潮高校野球部OBであり、伝統ある北潮高校野球部員であったことを誇りとも拠り所ともしていた父は、自身の息子に対し、徹底的なスパルタ教育を実践した。テレビも漫画も時に勉強さえも禁止され、朝から深夜まで野球漬けの生活を強要された。父のその日の気分で殴られるくらいならまだよい方で、試合でエラーをした日にはタバコの火を身体に押しあてられたこともある。令和の世なら虐待案件として確実に通報されていただろうし、父の言うままに北潮高校野球部に進んだ松原は、高校時代、このままでは本気で父を殺すか自分が死ぬかの二つに一つだと思い詰めていた時期がある。当時の野球部監督が松原の異変に気づいて、市内在住の生徒には異例の寮生活を認めてくれなかったならば、間違いなく実践していたことだろう。監督は既に鬼籍に入って真駒内の墓地に眠っているが、今でも心の底から感謝している。  一般的に、親のありがたみは自らが親となり、年を取った後によくわかるらしいのだが、松原の場合は四年前父がガンで死んだ時にまったく涙も出なかった。葬儀に集まった親戚から「お父さんはいつも保君の事を自慢していたんだよ。何せ夏の甲子園準優勝の監督だもんなぁ。お父さんの教育のたまものだ」と言われた時には、三十代後半で子どものいるよい年をした男が、トイレに駆け込んで胃の中のものをすべて吐いた。事情を知っている――松原が高校二年の夏、異変に気づいて監督に報せてくれた一学年上の女子マネージャーだった――美恵子がそれとなく間に入ってくれなかったなら、父の葬儀も施主の役割も放り出して、小樽埠頭から車で海に飛び込んでいたかもしれない。  そんな松原だから、自分の息子には絶対に野球を強制したくなかった。小学校に上がったばかりの和希を柔道と空手の道場に連れて行き、個人競技が本人の性に合わないと悟ると、インターネットで検索した少年ラグビーチームの体験入学に連れていった。息子が野球に興味を持たないように――平成の世に、自分と父の関係が再現されないように。当時の松原の努力とガソリン代は、当の息子の「父さん、僕は野球がしたいんだよ!」の一言で水の泡となって消えた。  その後、少年野球チームに所属した和希がめきめきと頭角を現し、北海道内で名の知れた選手となった後は、頼むから北潮に来ないでくれ……と願っていた。松原だって我が子は可愛い。他のどんな子どもよりも圧倒的に可愛い。だが松原が和希を気遣えば、他の選手や保護者の目には、監督が自分の子どもを依怙贔屓していると見えるだろう。そう思われない為には、他の選手達よりもいっそう厳しく息子に接しなければならない。――それでは和希があまりにも可哀想だ。  だから当の本人が自宅のリビングで「北潮以外ならどこでもいい」宣言を――今風に言うならぶちかまし、南北海道の強豪・札南第一高校に進学してくれたことは、父親の松原にとって、とてつもなくありがい出来事だった。高校に入学したあたりから、家で父親とはほとんど口を利かなくなって、同じ屋根の下で暮らしながらほぼすれ違いの毎日ではあったが、令和の男子高校生ならばこれくらいが普通だろう。引きこもりにならず、いじめにも巻き込まれず、甲子園を目標に、朝から晩まで野球漬けの毎日を忙しく過ごしているのであれば、親としてもうこれ以上何も言うことはない。育てたのはほとんど美恵子なので、子育てに成功したなどとは口が裂けても言えないが、少なくとも父と同じような父親にはならずに済んだ。  それだけでもう充分だ――と思っていた二〇二三年夏、和希が四番・キャッキャー・キャプテンを務める札南第一高校は南北海道大会の準決勝に勝利し、六年ぶりに決勝戦へと駒を進めていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!