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「――え、監督?何しに来たんすか?」  その日の午前中、北潮高校野球部練習場を訪れた松原を見て、Tシャツ・ジャージ姿の若者は目を丸くした。四番・サードの上田大地は北潮高校野球部三年――つい先週、準々決勝敗退と同時に引退した前チームのキャプテンである。  既に道東の野球強豪大学に進学を決めている上田は、引退後も毎日自主的に練習に参加している。歴代の北潮の四番の中でも群を抜いたスラッガーであり、チームをぐいぐい引っ張って行く馬力のある正真正銘のキャプテンだった。これだけの選手が打線の中心に座っていても、甲子園に行けるとは限らない。逆にこれといった中心選手が見当たらない年に、運と組み合わせとチーム力とで甲子園に進んだこともある。何年やっていても、高校野球とは難しいスポーツだとしみじみと感じている。 「上田、お前な……監督に向かって、何しに来たはないだろうが」 「だって今日は札南第一の決勝でしょうが!北広に応援に行かなくていいんすか!」  彼は松原の息子・和希と中学までチームメイトで、違う高校に進んだ後も親しい友人として付き合っていた。引退した上田の練習はあくまで自主練習なので、午前中は後輩達に混ざって練習し、これからJRに乗って北広島に向かう予定であると言う。既にシャワールームで汗を流した後なのだろう。そのままスポーツ飲料のCMに出られそうなくらい、すっきりと爽やかな顔をしている。 「いや、でもなぁ。北潮の監督がエスコンフィールドで札南の応援をするってのもなぁ……」 「なに馬鹿なこと言ってんすか!和希が監督の息子だってことくらい、みんな知ってますから。監督が札南の応援席にいたって誰も何もいいませんって!」  時代は既に令和へ変わり、最近の高校生は監督であろうとも上級生であろうとも遠慮なく自分の意見を口にする。目に余るようならそれとなく注意はしてきたが、基本的に松原は選手達を頭ごなしに押さえつけることはしてこなかった。しかし元・キャプテンに袖を引かれて背中を押され、グラウンドから追い出されそうになった時には、さすがに少しは上下関係の厳しさを教えておくべきだったか……と後悔した。もっとも上田は今、選手として監督に接しているわけではない。和希の――息子の友人として、友人の父親を球場に連れて行こうとしている。  グラウンドの入口付近で、押し問答をしている監督と元キャプテンに気づいたのだろう。室内練習場の方角から責任教諭――顧問の三原が歩いてくるが見えた。監督になる前は松原自身も勤めたことがあるが、地味ではあるが色々とやることの多い、なかなか大変なポジションだ。指導者として共に夏の甲子園決勝戦のベンチに座ったこともある三原は、この時、元キャプテンとそっくり同じことを言った。 「――松原監督、何しに来たんですか?」 「三原先生……あなたまで言いますか……」 「今日は息子さんの決勝でしょう。今日の練習は私が見ますから!ほら、さっさと北広島に行った、行った!」  上田と三原の二人がかりで、自らが監督を務める野球部の練習場を追い出されながら、松原は思った。夏の甲子園準優勝監督の威光は、大分、薄れつつある。今年の夏は準々決勝でコールド負けだった。父にとっては親孝行な息子とはいえず、息子とって立派な父親であるとは口が裂けても言えない。だけど俺は周囲の人間に、とんでもなく恵まれているのかもしれないな……と。  どうせ目的地が一緒なので、元キャプテンを車に乗せて北広島市にやってくると、エスコンフィールド北海道には既に大勢の観客・高校野球ファンが集まっていた。今年開業した新球場は野球場だけでなく、レストラン・パン屋・ホテルに温泉やサウナまで兼ね備えていて、野球の試合がない時であっても充分に楽しめる商業施設である。  朝方に一雨あった所為だろうか。今日は北海道らしからぬ湿度を感じる暑さで、車を下りた途端に全身がアスファルトに押し付けられるような気分になったが、球場には屋根があって冷房も効いている。円山球場の木陰も風が吹き抜けるとなかなか涼しいが、やはり文明の利器にはかなわない。試合する者・応援するも者・観戦する者にとって、とてもありがたい環境といえた。  中学時代のチームメイトと球場で待ち合わせていたらしい。暑さもなんのその、礼を言うなり階段を一段飛ばしで駆け上がって行った上田の背中を見送ってから、松原はスマホから妻の電話番号を呼び出した。美恵子は当然、札南第一の保護者や野球部関係者と一緒に球場入りしているはずだから――やはり、筋は通して置くべきだろう。  汗をだらだら流しながら関係者用入口前で待っていると、札南第一高校野球部監督・上林康樹がユニフォーム姿でやって来た。丸っこい身体付きで、丸顔に眼鏡をかけた風貌は有名な熊のキャラクターのようで、いかつさなどまったく感じないのだが、彼は札南第一を率いて何度も甲子園に出場し、夏の甲子園ではベスト八まで勝ち上がったこともある。北海道高校野球における名監督の一人である。  互いに北海道を代表する名門高校の監督なのでもちろん、面識はある。十歳ほど年長の名門野球部監督に向かって、松原は最敬礼をした。 「上林監督!ご無沙汰しております……いつも息子がお世話になっているのに、ご挨拶が遅れて申し訳ありません」 「松原さん、久しぶりですね。こんな風に顔を合わせてお話するのは、あの年以来ですか。あれからもう三年……早いものですな」  上林の言う「あの年」がいつのことなのかはすぐにわかった。春の選抜・夏の甲子園が中止となった二〇二〇年、松原は甲子園を奪われた三年生達の為に、道内の野球強豪校と勝ち抜き試合を組もうと画策した。その時に一番に賛成し、協力的してくれたのが今目の前にいる上林だった。結果的に北海道高野連主催の代替大会が開かれた為に勝ち抜き戦は行われなかったが、何もかもすべてが異常だったあの年、上林もまた松原と同じ思いを抱いていたのだろう。  北潮高校野球部は既に今大会を敗退している為、札南の現チームと北潮の新チームが公式戦で対戦することはない。だが札南第一側としては、ライバル校の監督が内野応援席に座ることは避けたいと考えるかもしれない。その場合は外野席で一般客に混ざって、ひっそりと息子の応援をしようと考えていた。 「上林監督、今日は一保護者として、応援席で札南の応援をしてもよろしいでしょうか?」 「もちろんですよ!松原さんはうちの和希の保護者じゃないですか!ぜひ応援してやって下さい。初めて試合にお父さんが試合に来てくれたんだ。――和希の奴、きっと張り切るだろうなぁ」  ――うちの和希。  この時、上林はためらいなく、和希のことをそう呼んだ。うちのエース、うちの四番。松原だって日頃、何度もそう口にしている。だけどこの時、その一言に不意に胸を打たれた気分になった。そうか、そうだよな……と胸のうちで語りかける。俺に父親の顔と監督の顔があるように、お前にも息子の顔と選手の顔があるんだよな。お前は俺の息子であると同時に、札南第一の四番であり、キャッキャーであり、キャプテンなんだ。父さんはずっと、そのことから目を逸らし続けていたんだろうか。  監督の許しを得たので、正々堂々と息子の野球の応援をしようと松原が球場内に意識を向けた時、観客席の方角から札南第一の吹奏楽部と、これから決勝戦を戦う陽大苫小牧の吹奏楽部が音合わせをしている音色が響いていた。
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