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 エスコンフィールド北海道のグラウンドは、テレビや写真で見るよりも、はるかに美しい場所だった。  赤茶けた土の色。漆黒の観客席。自慢の天然芝はガラス窓から射し込む陽光に照らされて、眩いほどに光り輝いている。はじめて新球場に足を踏み入れた松原は、かれこれ二十年以上前、現役高校球児として初めて甲子園のグラウンドに立った時のことを思い出した。  選手として、監督として、何度経験しても甲子園球場という場所には得たいの知れない何かが宿っているような、恐れにも似た感覚がある。そして今、甲子園から遠く離れた北の大地の球場からも、何故か同じものを感じる。百年以上も血の気の多い若者達が恋い焦がれ、求め続けてた甲子園球場に神や魔物が宿るのは理解できるのだが、生まれたばかりのこの新球場に一体何が宿っているのだろうか。――武者震いにも感覚で一瞬、背筋が震えた。  高校野球の応援をするのは大学時代に母校の応援に行って以来だし、北潮以外の高校の応援など、もちろんしたことはない。Tシャツは枚数が足りなくてもらえなかったが、札南第一の帽子を被り、札南カラーのメガホンを持った松原は妻の美恵子の隣の席――学校関係者専用の応援席で、完全に札南第一応援団の一員として、エスコンフィールドの内野二階席に座っていた。 「――え、あれって、北潮の松原監督じゃね?何で北潮の監督が札南の応援席にいんの?」 「今年の札南の四番の松原って、松原監督の息子だから。息子の応援に来たんだろ」 「へぇ……北潮の監督の息子が札南に行ったんだ。……そんなこともあるんだなぁ」  夏の甲子園全国最多出場を誇る名門校の監督の顔は、道内の高校野球ファンには広く知られている。そんなやり取りは何度も聞こえてきたが、逆に言うなら、そんなやり取り以上の何かは巻き起こらなかった。この件に関しては元キャプテン・上田の意見が全面的に正しかったと言わざるをえない。世間の声は、恐れる者には核弾頭のような威力を発揮するが、恐れぬ者には小鳥の囀り程度にもささやかない。既に不惑を過ぎた名門野球部監督が、息子と同じ年齢の若者に教え諭された気がする。  北潮高校野球部監督の目で見たエスコンフィールド北海道は、慣れるまではなかなかプレーするのが難しい球場と感じられた。天然芝のグランドはバウンドが合わせにくいものだし、どうやら三塁線の打球が切れにくい特性があるらしく、準決勝でその特性を見抜いた陽大苫小牧の各バッターは、積極的に三塁線へのセーフティバントを試みている。  南北海道大会決勝戦は、まさに決勝戦にふさわしい、白熱した好ゲームとなった。  一回裏に札南第一が一点を先制するも、すぐさま陽苫が二回表に二点を奪って逆転。五回の裏に札南が同点に追いついたのだが、七回表に三点を勝ち越され、試合の主導権を完全に陽大苫小牧に握られてしまった。 「駄目だ……怖い。もう見ていられん……」  陽苫の七回表の三点目は、キャッチャーの和希が低めの変化球を捕球できなかった――ワイルドピッチでの失点だった。十年以上高校野球の監督をやってきて、選手の数以上の保護者と関わってきたわけだが、自分がその立場になってみて、よくぞまあこのプレッシャーに耐えられるものだと心の底から尊敬する。ピッチャーのボールが低めに行くたびに後ろに逸らさないかと心臓が止まりそうになって、キャッチャーフライが上がると落球するのではないか気が気ではない。試合が始まってからの一時間あまりで、確実に十歳は老け込んだ気がする。 「せめて前で止めていればなぁ……打つ方だって今日はタイミングが合ってないだろう。……もう代えてもいいんじゃないのか」  当然のことながら、北潮と札南第一では応援のスタイルも違う。力強い北潮の応援とは一味違った吹奏楽の音楽に合わせて、両手にポンポンを持ったチアリーダーがキレキレの踊りを見せている。メガホンを打ち鳴らして野球部員と一緒に応援歌を歌っていた妻の美恵子が目をむいて、隣席の松原を叱責した。 「はあっ?あなた、何年高校野球の監督やってるの?今年の札南第一に和希以上のキャッチャーがいるわけがないでしょう!だから背番号二番をつけてるんじゃないの!」  結婚して二十年――交際期間も合わせれば二十五年近く連れ添っている女房に真正面から叱責されて、思わず、頭を抱えて項垂れてしまった。もともと彼女は松原の高校の先輩であり、今も昔も完全に頭が上がらない。朝から晩まで野球漬けで、特に春から夏にかけては家に帰れない日もある夫に対して文句も言わず――否、時々は文句を言いながら――ほぼ女手ひとつで家庭を切り盛りし、息子をここまで育ててあげてくれた。和希が二十歳になって共に酒を飲めるようになったら、本気で伝えようと考えている。結婚するなら、母さんみたいな女としろよ……と。  松原が妻に叱られている間に、八回裏の札南第一の攻撃が三者凡退で終わり、南北海道大会の決勝戦は五対二――先攻の陽大苫小牧が三点リードのまま、最終回を迎えようとしていた。  エスコンフィールドであっても円山球場であっても甲子園球場であっても、高校野球の最終回には魔物がとり付いているものらしい。  九回の裏になって、中盤以降は四死球なく快調に投げていた陽苫のエースの制球が突然、定まらなくなった。投手の制球が乱れると、守備にも当然、悪い影響が出る。先頭バッターがノースリーからのフォアボールで出塁、次打者のショートゴロは普通に処理すればダブルプレーを取れただろうが、送球を焦った遊撃手のセカンド送球がそれてオールセーフにしてしまった。さすがは全国優勝の経験のある陽苫のエースだけあって、三振と内野フライでツーアウトを取ったものの、そこからもう一つ四球を与えて二死満塁。長打で同点、ホームランなら逆転サヨナラの場面で、四番キャッキャー、キャプテンの松原に打順が回ってきた。  ――四番、キャッキャー松原君。  新球場・エスコンフィールド北海道に女子生徒の涼やかな声が響き渡る。昨年受けた健康診断の結果は正常だったはずなのだが、不整脈か心疾患を疑いたくなるくらい、激しく心臓が脈打っていた。この日の和希の打席は三振とレフトフライとピッチャーゴロで、陽苫のエースとはタイミングが合っていなかった。和希が凡退すればその瞬間に、札南第一の二〇二三年の夏が終わる。  これまで、時に叱咤激励し、時にユニフォーム尻を叩いて――似たような場面で何人もの選手を送り込んできたというのに、いざ自分の息子が同じ場面で打席に立っているのを見ると、いたたまれなくて目を逸らしたくなってしまう。  とてもそんな情けない父親の血を引いているとは思えないほど、この打席の和希は冷静だった。冷静にボール球を二球見送って、ストライクを取りにきた三球目を強振。ボールは真後ろのバックネットに飛ぶファールとなったが、これまでの打席と比べて、タイミングが合って来たようにも見える。  点差は五対二。陽大苫小牧三点リードで迎えた九回裏札南第一の攻撃。二死満塁、カウントツースリーからの七球目を札南の四番・松原和希は思い切り引っ張った。金属バットが芯を食った時特有のよい音がして、打球がショートの頭上を――レフトとセンターの間を越えて行く。  三点リードがあるので、陽大苫小牧としては二塁ランナーまでは帰してしまっても問題ない。最悪、一塁走者が帰ってきてもまだ同点だから、外野手は無理に深追いしなかった。捕球は無理だと判断したレフトは早めに踵を返し、クッションボールの処理をする体勢になっていた。極めて冷静かつ的確な判断であったのだが、この試合に限っては、冷静かつ沈着な判断が災いした。フェンスの最上段にぶつかったボールが、松原の目で見ても信じられないような跳ね返り方をしたのだ。  九回二死フルカウントからのヒットなので当然、満塁の走者はすべてスタートを切っている。二塁ランナーがホームに帰って一点差。同点の一塁ランナーが三塁を蹴ってホームベースに突入してきてもなお、まだ陽苫の外野手はボールを処理できていなかった。エスコンフォールドは外野ファールグラウンドが極端に狭い。カバーに入ったセンターの横をすり抜けたボールがファールグランドのフェンスにぶつかって跳ね返り、追いすがる背番号七番と八番をあざ笑うかのように、芝生の上で走り回っている。  身長一八四センチ・体重九十五キロ。がっしり体型の大型キャッチャーながら、和希はなかなか脚が速い。もっともこの試合展開であれば、よほど鈍足のランナーでない限り、監督が松原であっても打者走者を突っ込ませるだろう。三塁側ベンチの真ん前で、札南第一の三塁コーチャーがぐるぐると腕を回している。松原もまたグラウンドに向けて腹の底から声を張り上げていた。 「和希!行け――っ!」  バッターランナーの和希が二塁を蹴り、三塁を蹴ってホームベースにスライディングする。ようやくボールが手についたレフトからショート、そしてホームベース上のキャッチャーへと、ボールが引き放たれた矢のように一直線にバックホームされる。  札南第一の背番号二番と陽大苫小牧の背番号二番が、ホームベース上で交錯する。タッチとホームインのタイミングは、観客席からはほぼ同時に見えた。  きっとものすごい歓声や悲鳴や鳴り響ているのだろうが、耳には何も聞こえてこない。静寂とざわめき、歓喜と悲鳴と落胆と雄叫びが同時に存在する場所――松原がこれまで生きて来た世界。  すべて静寂を断ち切るように、主審の両手が肩の高さに真っ直ぐに広げられた。 「セーフ」  その瞬間、球場全体がどよめいた。屋根は閉まっているから風は吹いていないはずなのに、風を感じる。冷房で冷やされた球場内の空気全体がうねり、震え、まるで火山のマグマのように、グラウンドから吹きあがっている。  真っ先に我に帰った札南第一の吹奏楽部が、得点マーチと勝利のファンファーレを奏ででいる。三塁側応援席からは激しくメガホンを打ち鳴らす音が響き渡り、グラウンドの芝生と土の上で、陽大苫小牧の選手達が地面に膝を突いてがっくりと項垂れている。  松原の隣で、ふと、美恵子が呟いた。 「和希、本当はずっと、あなたに応援してもらいたかったのよ」 「美恵子?」 「あの子、今朝、家を出る時に言ってたの。……やっぱり父さんは決勝でも、球場に来てくれないのかなぁって」  ――父さん、僕は野球がしたいんだよ!  目を潤ませた妻の横顔に、目を真っ赤にして小さな拳を握りしめていた幼い息子の面影を思い出した。  松原自身は父に強制されて野球を始めたが、その後の人生においては、自らの意思で野球を選んだと胸を張って言える。父が松原に施した『教育』とやらは、息子の心を深く傷つけ、親子の情と絆をずたずたに切り裂いただけだった。そんな松原の息子――和希は逆に、野球を好きで好きでたまらないことを父に理解してもらえない悔しさに、涙した日があったのかもしれない。 「応援する!するに決まってるだろう……いや、させてくれ!有給休暇なら山ほど余ってるからな。――今年の夏は甲子園で和希を応援するんだ!」  甲子園には何度も行った。選手としても監督としても。そして今年の夏は初めて、ただ一人の親として全身全霊で、甲子園でプレーする息子を応援しようと松原は誓った。
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