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 当初、開業記念として二〇二三年のみの開催が発表されていた南北北海道大会の準決勝以降が、翌年の二〇二四年もエスコンフィールド北海道で開催されることになった。  二〇二三年の開催が商業的によほど成功したのか、もしくは新球場を本拠地とするプロ野球チームの勝敗と順位が少々――否、かなりよろしくない状態なので、他の集客手段を確保しておきたかったのだろうか。両方の理由、もしくはその他にも様々な要因が入り混じった結果であったのかもしれない。  いずれにしても北海道の高校球児にとっては、プロ野球の試合が行われる憧れの球場でプレーできる機会が確実にもう一年増えたのだ。円山球場もスタルヒン球場も聖地ではあるのだが、そこに新たにもう一つの聖地が加わって、自然、練習にも力が入る。北潮高校野球部員・高橋健人は二〇二三年夏から二〇二四年にかけて、誰にも負けないと胸を張って言えるくらい、精力的に練習に取り組んだ。  朝は寮生の誰よりも早く起きてランニングとウェイトと自主練習を行い、練習が終わって寮に帰った後は、街灯の下で夜遅くまでバットを振った。フィジカルだけでなくメンタルにも力を入れようと、北海道が雪と氷で覆われる冬場には隣接する北潮学園大学の図書館にまで行って、野球関連の本を片っ端から読み漁った。特に面白かったがプロ野球のヤクルト・阪神・楽天の監督であった故・野村克也氏の残した著書だった。令和の高校球児である健人は何となくテレビの印象で、すげぇ怖い奥さんのいる狸顔の爺さん……というくらいのイメージしか持っていなかったのだが、野球を抜きにして、純粋に読み物としても面白かった。受験の時でさえもこれほど机に向かわなかった思うくらいに活字と触れ合った結果――何故か定期テストの成績が上がったりもした。  そうして迎えた二〇二四年の春の全道大会で、健人は初めて背番号十八番をつけて、北潮高校のベンチに入った。  レギュラーセカンドの大野が故障で春の大会に出られず、監督の松原が春の大会は様々な選手を試したいタイプの監督であることが幸いした。セカンドで二試合、ショートで一試合先発出場したから、ある程度は期待されていたのだと思う。エラーは一つもなかったし、よいプレーもいくつかあって、我ながら守備はそつなくこなしたと思う。ただ如何せん、バットにボールが当たらなかった。送りバントは問題なく出来るから、北潮以外の学校なら、完全守備重視型の九番セカンドもありえたかもしれない。だが夏の甲子園全国最多出場を誇る北潮高校野球部には、守備も攻撃も一流の内野手がゴロゴロと転がっている。レギュラーセカンドの故障が癒えた夏の札幌地区予選前、監督から直接名を呼ばれて背番号を渡された二十人の中に、健人の名前は入っていなかった。  悔しくなかったといえば嘘になる。だけどその悔しさの中には、一抹の清々しさが含まれていた。努力する前から諦めていた昨年までとは、まったく違う。精一杯、全身全霊をかけて、やれるだけのことはやった。誰が認めてくれなくとも、自分で自分に言い聞かせることができる。――俺は俺の高校野球をやり切ったのだと。  それに選手としての夏は終わっても、健人には野球部応援リーダーとしての夏がまだ残されている。寮の机の一番下の引き出しを開けたのは、北海道の朝晩がまだ肌寒かった六月初旬――先年の応援リーダー・柿崎から応援ノートを渡されたあの日から、十ヶ月あまりの月日が経過していた。
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