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「春姫ちゃん――あっ、『ヤナギサワちゃん』って長いから、『春姫ちゃん』って呼んでいい?」
「いいですよ、なんでも」
顔を契約書に向けたまま手を動かす。夏木の指が、今書き終わったばかりの生年月日欄を示した。四月二十三日。
「春姫ちゃんは、春生まれだから『春姫』ちゃんなんだね」
恥ずかしい。何度も名前を呼ばれて。この人に私が「春の姫」だと知られて。
「父がつけてくれたんです。病室で、生まれたばっかりの私を抱っこした時、ちょうど窓の外を桜の花びらが舞ってたみたいで。その時、急に『この子は春の姫だ』って思ったらしくて、本当は他に候補があったのに、母の反対を押し切ってつけちゃったみたいなんです。私は母にもっと反対してほしかった」
一人でべらべら喋ってしまって、さらに羞恥心でいっぱいになる。
「そうかな。いい名前だし、春姫ちゃんに合ってると思うけど」
上手く言葉が見つけられなかった。どこが「合っている」のか、自分では全く分からなかったから。
沈黙。すごく気まずい。何か喋らないと空気が悪くなる、と思う。でも正解が分からない。春姫の頭がどんどん下がっていく。
上から女性の声が聞こえた。
「あら、もしかして昨日のコンビニの?」
押村だ。春姫が顔を上げると、押村が夏木ににらみをきかせた。
「俺は何にもしてないぞ」
「困ってるじゃない。どうせ夏木が変なこと言ったんでしょ。ごめんなさいね。こいつ、口から先に生まれてきたの。失礼なこと言われたら、何も気にせず、ぶっ叩いていいからね」
「おしゃべりなのはお前も一緒だからな」
せっかく春姫ちゃんと親交を温めてたのに、と夏木は不満げに押村を見上げる。
自分から話題がそれて、春姫は安堵した。
「お二人は仲がいいんですね」
「あたしたち、大学の同期なの」
押村が夏木の隣に立ち、肩を抱いた。とても親密そうだが、不思議と恋人同士のようには見えなかった。
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