10 なぐさめねこ

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 契約ゼロのまま、また夕方を迎えてしまった。ショッピングモールにいられるのもあと一時間だ。また今日もだめかもしれない。夏木はトイレに行ってくると言って席を外している。 「こんばんは。『ねこ』に助けてもらいませんか? 今なら三千円で三回分体験できます。いかがですか」  自分でも分かるくらい覇気のない声だ。こんな声では誰も近寄ってくれるわけが――。 「柳沢じゃないか、久しぶり。元気そうだな」  威圧感のある低い声が背後からして、体がこわばった。「ねこ」が春姫よりも先に声の主に体を向けて、「こんばんは。ねこがあなたをおたすけします」と言った。  春姫の首は、音を立てそうなくらいぎこちなく動いた。まるで春姫の方がロボットみたいだった。  春姫の後ろに立っていたのは、予想通り前の会社の上司だった。年齢は四十代前半だったはずだ。ネルシャツにジーンズ姿、髪の毛はワックスで後ろに流して固めている。でっぷりとしたお腹と尊大な態度は変わっていない。  同じくらいの年齢の女性が、一歩後ろをついてきていた。おそらく妻だろう。上司が大きな声で言う。 「おい、俺はこいつに用事があるから、適当にふらふらしておいてくれ。終わったら電話する」 「分かりました」  夫婦というよりも主従関係に見える。女性は表情を変えることなく、近くの雑貨屋に吸い込まれるように入って行った。  呆気に取られていると、 「柳沢、まだ営業やってるのか」  上司が勝手に椅子に座った。仕方なく春姫も机を挟んで対面に座る。 「はい」 「へえ。うちで結果出さないで辞めたくせに、懲りないね」  春姫は黙るしかなかった。月末、そして月初に「激励」という名目の嫌味をたくさんぶつけられたことを思い出した。  春姫は、自分自身がとても勝手だと思った。責めてくれない夏木に怒りを感じていたくせに、いざこうやって責められるとこの場から逃げ出したくなっている。
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