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強かな女と純粋な女
秋の人事異動の内示をもらった――ベッドの縁に腰かけて煙草を吸いながら、神崎課長は淡々と告げた。職場で仕事を回してくるときと、同じ口調で。
「本社に栄転ですか」
床に落ちたキャミソールだけ拾って頭から被り、今しがた自分が付けた肩口の爪痕を眺める。およそ2年近く、爛れた関係を持った男は、直属の上司だ。
「ん……まぁな」
「それで、どっちを連れて行くつもりですか」
ベッドの上で膝を抱える。ピンクのペティキュアが剥がれかけている。そろそろサロンの予約を入れようと思っていたけれど……彼の返事次第では、必要ないかも。
「俺と、一緒に来るか?」
「そうねぇ……」
背を向けたまま話すのは、本心じゃない証拠。そんなことくらい分かっているし、彼も分かっていて私を試すのだ。
「杏華は? あの娘にも話したんでしょ」
「はは……まだだよ。君の返事次第だ、由貴子」
煙草を灰皿に押し潰し、ようやく彼は半身を捻って、私を見た。ベッドサイドのランプが頰に翳りを落とす。10も年上の中年なのに、日本人離れした面立ちがセクシーで――眼差しが消えかけた炎に油を注ぐ。彼は自分の武器を充分に心得ている。
「……行かないわ。今の仕事が気に入っているわけじゃないけれど、貴方といても保障がないもの。ね、廉士さん」
ルックスも良く、人当たりもいい。もちろん仕事も出来て、昇進の内示も手に入れた、非の打ち所がない男。ただ一つ、専務に縁故の正妻がいながら、複数の部下と不実な関係を続ける性嗜好さえなければ。
「手厳しいな、君は」
スプリングが小さく軋んで、彼の手が髪を撫でる。
「どうせ、あっちでも誰かお抱えになるんでしょ? 古株なんか、優先順位が下がる一方だわ」
「そんなことない。馴染んだ心地良さってのもいいもんだ」
指先が耳朶を擽り、頰から唇を撫で、顎を掬う。私は抱えていた膝から手を離し、素直に彼の首に腕を回す。
「廉士さん……手切れ金は、ブルガリの新作バッグでいいわよ」
「分かった。感謝を込めて贈らせてもらうよ」
煙草の味の舌を絡めながら、彼の手がもう一度キャミソールを剥ぐ。重なるのは、これが最後だと分かっているのに、することはいつもと同じ。悲しくも怒りもないけれど、達した瞬間に眥から雫が溢れたのは久しぶりのことだった。
翌週、杏華が病欠した。
神崎課長の右頰が心なしか腫れている気がして、給湯室でそれとなく訊ねたら、やはり“別れ話の代償”だという。
「信じられない。普段は冷静なのに」
「……いやぁ、酷いもんだった。参ったよ」
「まさかと思いますけど、私のことは」
「言うわけないだろ」
「良かった。それじゃ、帰りに様子を見に行きます」
「……悪いな」
「お気持ち、期待しておきますから」
ニコリと微笑みを残して、私は給湯室を出た。この貸しは、バッグのランクに反映するかしら。それとも、バッグに某かのプラスアルファが付くかもしれない。
昼休みに穂南と相談して、2人で様子を見に行く旨を杏華にLINEした。終業後にスマホを確認すると、既読になっていたものの、いいとも悪いとも返信はなかった。
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