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「杏華ぁー、着いたよ、開けてぇー」
穂南がインターホンを連打する。まるでいつか見たドラマの借金の取り立て屋みたい。私も改めてLINEを送る。5分ほどドアの前で粘っていると、インターホンがカチリと小さな反応を示した。
「……あたしなら、大丈夫。ごめんね、風邪が移るから……帰って」
独り言かと思うくらい、力のない声。私は、穂南を押し退けるように前に出て、インターホンに向かって必死に語りかけた。
「ごめん、杏華。私、課長に様子を見てこいって頼まれちゃって。あんたの顔見ないと帰れないの」
「もうっ! 私達、心配してるんだからねぇ!」
隣から、負けじと穂南も声を上げる。
「じゃ……ちょっとだけ……」
私達の圧に負けたのか、近所への配慮なのか、杏華は折れた。ドアの施錠が外れる音がした途端、私は素早くノブを引いた。
「きゃ……?」
内側のチェーンが外れていたのをいいことに、勢いのまま玄関に侵入して――。
「……杏華っ!」
グレーのTシャツを着た彼女を、ギュウッと両腕の中に閉じ込めた。小さく震えた身体は冷え、髪からは微かに煙草の香りがした。神崎課長の吸う銘柄と同じ、芳ばしくも苦い香りが。
リビングに上がり込んだ私達は、杏華から報われなかった恋の結末を聞いた。単なる上司と部下でしかない穂南は、純粋に怒りを顕わにしていたが、私は驚きを持って彼女を眺めた。
私が疾うに把握していた課長の人間関係を、彼女はまるで認識していなかった。男の都合の良い説明を疑うことなく信じていたなんて。
「ほ、本社に異動になるときは、奥さんと別れるって……あたしを一緒に連れて行ってくれるって、ずっと、そう言っていたのにっ……!」
慟哭する杏華を前に、私は不思議な感情が胸の奥から湧き上がるのに気づいた。
同情……違う。優越感? いいや、もっと……フワフワと温かくて、腹の底から満たされるような、この気持ちは――。
「ねぇ、課長とは、いつからだったの?」
箱から数枚抜き出したティッシュを渡しながら、杏華の隣に移動する。彼女が顔をクシャクシャにして涙を押さえる。その仕種だけで、ゾクゾクと身体の芯が震えた。奇妙な昂ぶりが止まらない。
「ちょっとぉ、由貴子? こんなときに」
「いいえ。この際、全部吐き出した方がラクになるわ」
優しい穂南。それに対して、私は――気遣う振りをして、自分の快楽のために生々しい傷を抉る、酷い女だ。
「ね、杏華?」
私の傍らで項垂れていた杏華は、力なくコクンと頷いた。
「入社して……間もなくのことだったわ……」
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